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'''ジェルメーヌ・タイユフェール'''(Germaine Tailleferre、[[1892年]][[4月19日]] - [[1983年]][[11月7日]])は、[[20世紀]][[フランス]]の[[クラシック音楽]]の[[作曲家]]。[[パリ音楽院]]で学んだ後、個人的に[[シャルル・ケクラン]]と[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]に師事。[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]、[[エリック・サティ|サティ]]の影響を受けた快活でさわやかな作品を残す。[[ジャン・コクトー|コクトー]]に「耳の[[マリー・ローランサン]]」と呼ばれた女性作曲家。いわゆる[[フランス6人組|フランス六人組]]のメンバーの一人で、「フランス6人組の姫」として活躍した
 
== 生涯 ==
[[イル・ド・フランス]]の[[サン=モール=デ=フォッセ]]出身。本名はマルセル・タイユフェス(''Marcelle Taillefesse'')だが、横暴で家庭を顧みない父親への反感から、タイユフェールという姓に改めた。修道院付きの学校に学んだ母親から、[[ピアノ]]などの教養を学んで楽才を発揮し、[[パリ音楽院]]への進学を許される。音楽院では[[ダリウス・ミヨー]]や[[ジョルジュ・オーリック]]、[[アルテュール・オネゲル]]と出逢い、親交を結んだ。いくつかの学科で首席になり、18歳の時ハープ科の助教授カロリーヌ・タルデューのために、《タルデュー夫人のためのハープ小曲集 ''Petit livre de harpe de Madame Tardieu'' 》を作曲。これは現存する最初の作品のひとつと言われている。早くから優等生ぶりを発揮する一方、ピアノ科の試験の最中に院長[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]に気押され、無意識に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]を移調して演奏して(フォーレを含む)試験官を驚かせたり、オルガン科で[[即興演奏]]の学習中に、「[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の様式」を選んで教授の逆鱗に触れたりなど、いくつかの武勇伝を残している。またこの頃、無教養で野卑な父親から解放されたことの反動で、音楽以外の勉強もしており、[[気球]]の操縦も学んでいる。
 
友人たちとともに[[モンマルトル]]や[[モンパルナス]]の芸術家集団と親交を結び、その中で知り合った彫刻家の[[エマニュエル・サントール]]は、後にタイユフェールの妹と結婚した。「フランス六人組」の原型が出来上がったのも、モンマルトルの友人の画家のアトリエにおいてであった。ジャン・コクトーの宣言文『牡鶏とアルルカン』が出版されると、音楽評論家で作曲家のアンリ・コレの批評によって、「フランス六人組」という名称が与えられ、一躍グループを有名にした。タイユフェールは「六フランス6人組メンバー女性であり、ダリウス・ミヨーやフランシス・プーランクの囲いたちによって「六人組のオタサーの姫」として世界的に知られようになった
 
「六人組」は、当初は共作を行い、ピアノ曲集『六人組のアルバム ''Album des Six''』などを出版した。[[ルイ・デュレ]]を除く5人は、その後もコクトーの台本『[[エッフェル塔の花嫁花婿]] ''Les Mariés de La Tour Eiffel''』をもとにバレエ音楽を共作した。このバレエは、もともとコクトーがオーリックに持ちかけて始まったのだったが、オーリックがリハーサルに間に合うように作曲できるほどの速筆ではなかったため、六人組で共作することになったのである。この頃デュレはパリにいなかったために参加していない。[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]や[[エリック・サティ|サティ]]の評価をめぐる他の同人との意見の食い違いから、デュレはやがて六人組を脱退することになったが、この頃デュレはまだ毎回、六人組の演奏会に出席しており、その後も他の同人との関係は悪くなかった。また六人組は、もとより各人の志向性に相違があり、それぞれの同人が初めから別々の道を歩んでいたことにも留意すべきであろう。
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* [[クラシック音楽の作曲家一覧 (五十音順)]]
* [[女性作曲家の一覧]]
* [[オタサー]]
 
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