「デヴィッド・O・セルズニック」の版間の差分

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父親のルイス・J・セルズニックはサイレント映画の監督であった。[[コロンビア大学]]で学び、1923年に父親の会社が破産するまでそこで映画製作に携わる。1926年に[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]に入るが2年後に[[パラマウント映画]]に移る。その3年後、今度は[[RKO]]に移り、『[[キングコング (1933年の映画)|キング・コング]]』などを制作。1935年に独立し、セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズを設立した。1949年に女優の[[ジェニファー・ジョーンズ]]と再婚。
 
作品は驚くほどの傑作ぞろいだが、これは偶然ではない。彼が作品にうるさく口出しして、実質的に監督との二人三脚で作成した共同制作の作品なってい委任す方針を取だ。ず、[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]は『[[レベッカ (映画)|レベッカ]]』について「あれ(アカデミー賞作品賞)はセルズニックに与えられた賞だ」と述べたほどである{{要出典|date=2015年9月}}
 
ただしうるさく口出しする方針が嫌われて、監督からも俳優からも疎んじられるようになり、契約を拒まれ、ろくに制作もできなくなるハメになった。最後には多額の負債を抱えて破産寸前にまでなり、精神科医にかかった事もあった{{要出典|date=2015年9月}}
 
また、妻であるジェニファー・ジョーンズとの関係は良好だった。ジョーンズは彼と結婚している間の[[1955年]]、『[[慕情]]』で主役を務めたが、共演者である[[ウィリアム・ホールデン]]のことを嫌い「夫が見たらどう思うか」と言っていたという{{要出典|date=2015年9月}}
輝かしい光と陰の二重性に満ちた人生を送った彼は、映画世界の天才だと言える。当時の彼は誰からも嫌われたのかもしれないが、彼の残した作品は燦然と輝いて今日まで残っている。もし彼がいなければ、これらの作品はまったく生まれなかったのだ。
 
セルズニックの能力は、映画の絵画的な美しさにおいて強く発揮されたという評価・逸話もある{{要出典|date=2015年9月}}。
また、妻であるジェニファー・ジョーンズとの関係は良好だった。ジョーンズは彼と結婚している間の[[1955年]]、『[[慕情]]』で主役を務めたが、共演者である[[ウィリアム・ホールデン]]のことを嫌い「夫が見たらどう思うか」と言っていたという。
 
彼のプロデュース作品の短いテーマ曲映画音楽の巨匠、作曲家[[アルフレッド・ニューマン]]が担当し満足させる曲を提供した。オープニングではそのテーマ曲に乗せて社屋が映し出される。
なお、下記の作品はいずれも絵画的な美しさが際立っている。一方、それぞれの映画の監督は誰もが、セルズニックと共同で作った映画以外では、あまり絵画的な美しさを発揮していない。このことから、セルズニックの能力は、映画の絵画的な美しさにおいて強く発揮されたと言える(それを裏付ける逸話もいくつか残っている)。
 
彼のプロデュース作品の短いテーマ曲を映画音楽の巨匠、[[アルフレッド・ニューマン]]が担当し満足させる曲を提供した。オープニングではそのテーマ曲に乗せて社屋が映し出される。
 
1939年度の[[アービング・G・タルバーグ賞]]を受賞した。