「蘆名義広」の版間の差分

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=== 養子入り ===
この頃、[[蘆名盛隆]]の子[[蘆名亀王丸|亀王丸]]が夭折したため、家中は養子を巡って二分することになる。伊達氏の[[伊達政道|小次郎]]を推す蘆名一門衆の猪苗代盛国、平田氏や富田氏ら蘆名宿老の大半、外様の国人領主ら伊達派勢力と、重臣で中央政権との繋がりの深い[[金上盛備]]ら義広を推す佐竹派勢力とに二分された。この後継者争いは金上の政略により義広派が勝利し、天正15年([[1587年]])、盛隆の養女と結婚して'''蘆名義広盛重'''と名乗り、[[蘆名氏]]当主となる。
 
しかし他家からの養子であり、前述の後継者争いでの紛糾、当人の年齢も若かった為、家臣団を掌握することができずにいた。この際、伊達氏との仲が決定的に決裂することとなる。さらに義広に付属して佐竹氏から送り込まれた[[大縄義辰]]らの家臣団が蘆名氏を支配し、伊達派の宿老らを次々と失脚させていった。