「アショーカ王碑文」の版間の差分

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=== 石柱 ===
石柱は摩崖よりも時代が新しい。[[ワーラーナシー|バラナシ]]近郊にある[[チュナール]]の採石場で造られ<ref>{{cite web
|title=Pillar of Emperor Ashoka
|publisher=The British Museum
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アショーカ王の碑文がいつごろまで読めたかはよくわからない。[[法顕]]や[[玄奘]]は石柱の大きさやその柱頭の動物・アショーカ王が造ったこと・刻文があることについても記していて、とくに玄奘は刻文を読んだようである<ref>たとえば『[[大唐西域記]]』巻八「仏跡精舎側不遠、有大石柱、高三十余尺。書記残欠、其大略曰:無憂王信根貞固、三以贍部洲施仏法僧、三以諸珍宝重自酬贖。」</ref>。
 
14世紀、[[トゥグルク朝]]の[[フィールーズ・シャー・トゥグルク]]は、[[メーラト]]([[ウッタル・プラデーシュ州]])とトープラー([[ハリヤ州]])の石柱をデリーに運ばせて学者に解読させようとしたが、誰も読めなかった<ref>田中(1981) pp.183-184</ref>。
 
1830年代に[[ジェームズ・プリンセプ]]によって、ブラーフミー文字とカローシュティー文字がともに解読された。