「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア」の版間の差分

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<!--{{告知|提案|陰謀説について}}-->
{{Infobox 人物
|氏名 = JFK ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア
|ふりがな = {{smaller|John Fitzgerald Kennedy Jr.}}
|画像 = JFKJr2.jpg
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1960|11|25|1999|07|16}}
|死没地 = {{USA}} [[マサチューセッツ州]][[マーサズ・ヴィニヤード]]
|職業 = 弁護士、法律家、雑誌編集長発行人
|出身校 = [[フィリップス・アカデミー|P.A. アンドーヴァー]]、[[ブラウン大学|ブラウン大]]、[[ニューヨーク大学|ニューヨーク大]][[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロースクール]]
|父親      = [[ジョン・F・ケネディ]]    
|母親 = [[ジャクリーン・ケネディ]]
|配偶者 = [[キャロリン・ベセット=ケネディ|キャロリン・ベセット]]
|子供 = なし
|親戚      = [[ケネディ家]]
}}
 
'''ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア'''(John Fitzgerald Kennedy, Jr., [[1960年]][[11月25日]] - [[1999年]][[7月16日]])は、[[アメリカ合衆国]]の弁護士([[法務博士]])、法律家、雑誌編集長発行人
 
第35代[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョン・F・ケネディ]]と[[ジャクリーン・ケネディ|ジャクリーン]]夫人の長男(第二子)。愛称は'''ジョン・ジョン''' (John John)。一般には'''JFKジュニア''' (JFK Jr.) と呼ばれていた。
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==プロフィール==
=== 生い立ち ===
[[ファイル:Two JFKs.jpg|thumb|leftright|180px200px|1963年10月10日、ホワイトハウスにて(1963年10月10日)]]
JFKジュニアが[[ワシントンD.C.]]で誕生したのは父が大統領に就任する直前であり、出生まえから衆目を集める存在だった。JFKジュニアは生後3年間[[ホワイトハウス]]で過ごした。
[[File:ARC194186.gif|thumb|right|200px|父親の葬儀時(1963年11月25日)]]
JFKジュニアが[[ワシントンD.C.]]で誕生したのは、上院議員であった父が大統領に就任する直前であり、出生前からマスコミとアメリカ国民の衆目を集める存在だった。父親の大統領就任後に[[ホワイトハウス]]に引っ越しその後3年間を過ごした。父親の大統領就任時にホワイトハウスやハイアニスポートの別荘などで、家族とともに撮られた公式写真が多数残っている。
 
[[ファイル:Two JFKs.jpg|thumb|left|180px|1963年10月10日、ホワイトハウスにて]]
1963年11月22日に[[ケネディ大統領暗殺事件]]が起こり、その[[国葬]]が行われた11月25日はJFKジュニアの3歳の誕生日だった。目前で曵かれゆく父の棺に対し幼い彼が[[挙手の敬礼]]をした姿が当時報じられた。
 
===幼年期===
父親の死後、母と姉の[[キャロライン・ケネディ|キャロライン]]とともにJFKジュニアはやがて[[ニューヨーク市]]に移り、[[マンハッタン]]の高級住宅街の[[:en:Upper East Side of Manhattan|アッパー・イースト・サイド]]で幼年時代を過ごした。
 
1968年、JFKジュニアが7歳のとき、母は[[ギリシャ]]の海運王で大富豪として知られる[[アリストテレス・オナシス]]と再婚し、この結婚は1975年のオナシスの死まで続いた。しかし、オナシスはJFKジュニアの人格形成に大きな影響を及ぼすことはなかったといわれる。なおJFKジュニアはこの少年時代にアフリカ奥地で遭難し[[マサイ族]]に救助されるという経験をしている。
 
=== 教育===
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=== 法律家と編集者 ===
JFKジュニアは1988年に[[マイケル・デュカキス]]を[[民主党 (アメリカ)|民主党]]大統領候補に指名した党全国大会で演説したのをきっかけに、次第に将来の大統領候補としてその名が取り沙汰されるようになっていった。

その傍ら[[ニューヨーク州]]地方検事補を1989年から1993年まで務めた。また1995年には政治とライフスタイルとしての政治を扱った高級誌『ジョージ』([[アシェット・フィリパッキ・メディア]]社発行)を創刊、編集長を務めた。同誌は死後の2001年に廃刊となっている。
 
===セレブリティ===
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=== 死去 ===
==== 墜落 ====
[[File:Piper Saratoga (5137194758).jpg|thumb|right|200px|パイパー・サラトガの同型機]]
1999年7月16日、JFKジュニアは小型飛行機「[[パイパー・エアクラフト|パイパー]]・[[:en:Piper Saratoga|サラトガ]]」を操縦し、アメリカ東部の[[ニュージャージー州]][[フェアフィールド]]の[[エセックス郡空港]]から、一家の別荘がある[[マサチューセッツ州]][[マーサズ・ヴィニヤード]]島へ向かう途中、[[ロングアイランド]]沖の海上で消息を断った。懸命の捜索が行われた結果、20日にマーサズ・ヴィニヤード島南西沖約12キロの海底で、妻とその姉ローレン・ベセットと共に、遺体が発見された。米[[沿岸警備隊]]の発表によると、機体は胴体部分が水深約35メートルの海底に横たわり、中から3人が見つかったという
 
小型機の捜索としては例のない大規模な捜索が捜索を断った周辺の海域で行われた結果、20日にマーサズ・ヴィニヤード島南西沖約12キロの海底で、妻とその姉ローレン・ベセットと共に、遺体が発見された。[[沿岸警備隊]]の発表によると、機体は胴体部分が水深約35メートルの海底に横たわり、中から3人の遺体が見つかったという。
JFKジュニアは、従妹のロリー・キャサリン・ケネディの結婚式に参列するためその会場に赴くところだったが、この事故によって挙式は延期された。
 
JFKジュニアは、従妹のロリー・キャサリン・ケネディの結婚式に参列するためその会場に赴くところだったが、この事故によって挙式は延期された。事故の起きた海はケネディ家の別荘のある高級住宅地の[[ハイアニスポート]]の近くで、ケネディ大統領がこよなく愛し、大統領としての疲れをいやすためたびたび訪れた場所だった。<!--また遺族の手によって]]の[[ダラス]]から運ばれた棺を極秘裏に沈めた海に近い場所であった。-->
 
==== 事故原因 ====
なおJFKジュニアは上記のように注目を浴びる存在であった上に、政治面からも注目される対象であったことから、事件(暗殺やテロなど)と事故の両面で調査が行われ、[[アメリカ連邦捜査局]](FBI)と[[国家運輸安全委員会]]の両方で調査が行われた。しかし調査の結果機体残骸に爆発した痕跡や攻撃を受けた痕跡が無かったため、事件性はないとの結論に達した。また事故調査の結果、機体、システム、航空電子機器、エンジンなどには機械的異常の証拠が見出されなかった。
[[国家運輸安全委員会]]の事故調査の結果、機体・システム・航空電子機器・エンジンなどには機械的異常の証拠が見出されなかった。操縦していた「パイパー・サラトガ」は、高性能である反面、機体制御が難しいとみなされている機種で、しかもJFKジュニアはパイロットとしての経験をあまり積んでいるとはいえなかった。飛行時間は310時間で、そのうち夜間飛行は55時間、高性能機での飛行経験は36時間で、計器飛行訓練については規定の半分の訓練時間しか積んでいなかった。
 
[[国家運輸安全委員会]]の事故調査の結果、機体・システム・航空電子機器・エンジンなどには機械的異常の証拠が見出されなかった。操縦していた「パイパー・サラトガ」は、高性能である反面、機体制御が難しいとみなされている機種で、しかもJFKジュニアはパイロットとしての経験をあまり積んでいるとはいえなかった。飛行時間は310時間で、そのうち夜間飛行は55時間、高性能機での飛行経験は36時間で、計器飛行訓練については規定の半分の訓練時間しか積んでいなかった。またJFKジュニアはこの事故の前に[[ハンググライダー]]の事故で足にけがをしており、久しぶりの単独飛行であった。
 
これらの結果、事故の原因は[[空間識失調]](操縦者が夜間に海上に降下していくとき空間的な方向感覚を失い、機体の制御が維持出来なくなったため)と結論付けられた。