「連合軍軍政期 (ドイツ)」の版間の差分

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[[ポツダム会談]]で決定された[[ポツダム協定]]により、ドイツ人はポーランド、チェコスロバキア、[[ハンガリー]]から追放されることが決まっていた。ハンガリーはこの協定に抵抗しようとしたが、ソ連の圧力に屈した。数百万のドイツ人が東プロイセン、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーなどから強制労働には使役されることなく、追放された。彼らはポツダム協定によってドイツへ移住することが決められていたため、連合国占領域(イギリス、アメリカ、ソビエト)に送られ、長期の難民生活を余儀なくされた。
 
また、その追放や引揚者とは別にソ連の「[[ドイツ第二次世界大戦後おけナチス・ドイツを原因とする賠の戦後補償|対独賠償請求]]」の一環として強制連行され、強制労働に従事させられたドイツ民間人も約90万人存在した。彼らの多くは東プロイセンに住む人々であった。その民間人の約45パーセントが連行中に死亡、ドイツに戻ることはなかった。
 
フランスはポツダム会議および同協定には参加できず、協定の一部を承認するに留まり、戦後のドイツ人追放者の問題にはフランスがドイツ人追放を否認したという立場を維持したので、フランス占領域に存在する国外追放者を扶養することに責任を負わなかった。1947年7月にフランス軍が駐留するまでに存在した少数の避難民については面倒を見たが、それ以外に東側から来た追放者をフランス軍駐留域に入れることは拒否した。1945年2月から5月にかけて[[デンマーク]]に避難していたドイツ人難民25万人をフランス軍政府は1946年12月に受け入れたが、これはあきらかに東部からの避難民であった。