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== 日本の鷹狩り ==
=== 古代 ===
日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、[[古墳時代]]の[[埴輪]]には手に鷹を乗せたものも存在する。[[日本書紀]]には[[仁徳天皇]]の時代([[355年]])には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、[[天皇]]の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令)/主鷹司(養老令)が置かれた。[[正倉院]]に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。[[平安時代]]に入ると新設の[[蔵人所]]にも鷹飼が置かれ、主鷹司が廃止され天皇の鷹狩を[[蔵人所]]贄調達のための鷹狩を管るようになる。奈良時代だが、仏教愛好者とし殺生禁止の思想の広まりにより鷹狩に否定的な考えが生まれ鷹の飼育や鷹狩に対する規制が取られるようになり、[[清和天皇]]は[[大伴家持真雅]]や[[橘奈藤原麻呂]]の助言を受け入れる形で、貞観2年(860年)に主鷹司の廃止と蔵人所の鷹飼の職の廃止知ら行わ、以降鷹の飼育に関す規制が強化された。次の[[陽成天皇]]の元慶6年(882年)に蔵人所の鷹飼のみ復活され、蔵人所が鷹狩を管掌する<ref name=akiyoshi>秋吉正博「日本古代の放鷹文化と統治思想」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年) ISBN 978-4-87294-889-9</ref>
 
奈良時代の愛好者としては[[大伴家持]]や[[橘奈良麻呂]]が知られ、平安時代]]においては、初期の[[桓武天皇]]、[[嵯峨天皇]]、陽成天皇、[[光孝天皇]]、[[宇多天皇]]、[[醍醐天皇]]らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている([[818年]])。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で2番目に古い。中期以降においても、[[一条天皇]]、[[白河天皇]]などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。[[坂上田村麻呂]]、[[在原行平]]、[[在原業平]]は鷹狩の名手としても知られ、[[源信 (公卿)|源信]]は鷹狩の途中で事故死しと伝えられている
 
鷹狩は文学の題材ともなり、『[[伊勢物語]]』、『[[源氏物語]]』、『[[今昔物語]]』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。[[和歌]]の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の[[歌語]]であり、「小鷹狩」は秋の歌語である。
 
古代の鷹狩は仏教の殺生禁止の思想と神道における贄献上の思想(天皇についてはこれに[[王土王臣思想]]が加わる)のせめぎ合いの中で規制と緩和が繰り返されてきたが、最終的には天皇と一部貴族による特権とされるようになった。また、鷹狩の規制は鷹の飼育や狩りで生活をしてきた[[蝦夷]]の生活を圧迫し、平安時代前期の蝦夷の反乱を原因の一つになったとする見方もある<ref name=akiyoshi/>。
 
=== 中世 ===