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== 来歴 ==
[[岡山県]][[岡山市]]に生まれ7歳の時[[福岡県]][[門司市]]に移る。[[高等小学校]]{{どこ|date=2015-09}}から[[1904年]]9月、[[熊本陸軍地方幼年学校]]入学。[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]を経て、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](23期)から[[陸軍大学校]](32期)に進学し、[[トルコ]][[在外公館|公使館]]付[[駐在武官|武官]]。この時、[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・パシャ]]の[[革命]][[思想]]に接したことが、その後の遍歴に影響する。そのときから趣味は「革命」となったらしい。
 
その後、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]ロシア班長となり、[[1930年]]に参謀本部の[[将校]]らと密かに[[桜会]]を組織。[[三月事件]]・[[十月事件]]を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる。戦後の[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において、[[A級戦犯]]として起訴されたのは、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側が三月事件・十月事件を「侵略計画の発端」とした事が最大の要因であると推測されている([[木戸幸一]]も同様の見解を示していた)。
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予備役中の1936年に[[大日本青年党]](のち[[大日本赤誠会]]に改称)を組織し[[ファシズム]]運動を展開、[[近衛文麿]][[内閣総理大臣|首相]]が掲げる[[新体制運動]]にも積極的に協力した。[[1942年]]の[[翼賛選挙]]で[[衆議院議員]]に当選し、[[翼賛政治会]]総務に就任した。
 
[[極東国際軍事裁判]]で[[A級戦犯]]として起訴され、[[終身刑]]。仮釈放後も、獄中で「'''思い残す こともなけれど 尚一度 大きなことを なして死にたし'''」と詠んでいた様に、国家改造を志す野心は変わらず、[[1956年]]の[[第4回参議院議員通常選挙]][[全国区]]に、政党の公認や資金も無い状態で周囲が止めるのも聞かずに[[無所属]]で立候補したが、落選している。
 
[[1957年]][[6月29日]]、[[肺癌]]により死去。[[享年]]67。
 
橋本には、出獄後に結婚した3度目の妻がいたが、橋本の臨終間際に離婚を申し出て去っていった。葬儀は、三月事件以来サポートを受けていた[[徳川義親]]が面倒を見た。
 
== 人物 ==