「ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ」の版間の差分

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'''ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ'''(Piero di Lorenzo de' Medici [[1472年]][[2月15日]] - [[1503年]][[12月28日]])は、[[フィレンツェ]]の[[メディチ家]]の当主の一人。[[フィレンツェ共和国]]を追放され、早世したため、'''ピエロ・ロ・スフォルトゥナート'''(Piero lo Sfortunato、不運なピエロ)あるいは'''ピエロ・イル・ファトゥオ'''(Piero il Fatuo、愚昧なピエロ)と通称される。[[ロレンツォ・デ・メディチ]]とクラリーチェ・オルシーニの長男で、ジョヴァンニ([[教皇|ローマ教皇]][[レオ10世_(ローマ教皇)|レオ10世]])、[[ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)|ジュリアーノ]]の兄である。
 
メディチ家最盛期を築いた父・ロレンツォが43歳の若さで病死すると、20歳の若さで家督を継いだ。元々人望に乏しく、不満も高まっていたが、[[1494年]]、[[フランス王国|フランス]]軍が[[ナポリ王国]]を目指して侵攻した際、抗戦せず独断でフランス軍の入城を許可したため、フィレンツェを追放された。これと一緒にメディチ銀行も破綻した。メディチ家は亡命生活を送ることになる。
 
その後、ピエロは[[チェーザレ・ボルジア]]の軍と共に行動していたが、1503年、戦闘で逃走中に[[ガリリャーノ川]]で溺死した。ピエロの死により、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニ([[枢機卿]]。後のローマ教皇レオ10世)に継承された。