「張家口市」の版間の差分

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[[明|明代]]になると[[延慶州]]、[[保安州]]、[[雲州]]、蔚州および万全都指揮使司十二衛の地となった。[[1429年]]([[宣徳]]4年)には張家口堡を築き、京師宣府鎮に属させた。[[1449年]]([[正統 (明)|正統]]14年)には土木堡で[[土木の変]]が発生している。[[1613年]]([[万暦]]41年)には'''来遠堡'''が設置され、モンゴルとの間の貿易拠点とされている。[[清|清代]]になると[[1724年]]([[雍正]]2年)に遊牧民族を管理する口北三庁(多倫諾爾庁、独石口庁、張家口庁)が設置され、張家口市域の大部分は張家口庁に属していた。南部は宣化府(今の宣化区)に属していた。
 
[[中華民国]]が成立すると当初は[[宣化府]][[万全県]]に属したが、[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)の府制廃止に伴い[[直隸省 (中華民国)|直隸省]][[察哈爾特別区|察哈爾(チャハル)特別区]][[口北道]]の管轄とされた。[[1928年]](民国17年)以降は直隸省から分離し新設された[[察哈爾省]](チャハル省)の省都とされた。1937年(民国26年)9月、[[日中戦争]]が勃発すると対日協力政権である[[察南自治政府]]が成立、その首都となる。[[1939年]](民国28年)には[[蒙古聯合自治政府]]の首都となり、'''張家口特別市'''が設置された。[[ソ連対日参戦]]の際は[[ソビエト連邦]]と[[モンゴル人民共和国]]の連合軍が侵攻して[[1945年]]8月21日まで[[日本軍]]との激戦地となっており、ソ連モンゴル連合軍烈士記念塔が建てられている。戦後同年8月23日には[[中国共産党]]の影響下に置かれて[[晋察冀辺区]]に組み込まれ、[[ウランフ1946年]]による[[内モンゴル自治運動連合会]]統治の拠点が置かれるも[[国共内戦]]では[[中国国民党]]軍に一時占領されるこもあった。
 
中華人民共和国が成立した[[1949年]]12月に[[内モンゴル自治区]]の政府機関所在地となるも、[[1952年]]に張家口市は河北省に編入された。[[1955年]]には宣化市を併合、[[宣化区]]とした。[[中ソ対立]]時代はソ連の侵攻に備え張家口の陸軍が増強された。[[1993年]]には周囲の張家口地区と合併し、地級市・張家口市が誕生した。