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{{Otheruses|[[教皇|ローマ教皇]]を最高指導者とする[[キリスト教]]最大の[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]|キリスト教における、公同、普遍、普公とも訳される概念|カトリック (概念)|自らの「[[カトリック (概念)|カトリック]]性(普遍性)」を自認する他の教派|公同の教会}}
{{参照方法|date=2011年2月}}
[[Image:Basilica di San Pietro front (MM).jpg|thumb|250px|[[バチカン|バチカン市国]]南東端にあるカトリック教会の総本山、[[サン・ピエトロ大聖堂]]]]
{{キリスト教}}
'''カトリック教会'''(カトリックきょうかい、{{Lang-la|'''Ecclesia Catholica'''}})は、[[教皇|ローマ教皇]]を中心として全世界に12億人以上の信徒を有する[[キリスト教]]最大の[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]。その中心を[[ローマ]]の[[司教座]]にくことから'''ローマ教会'''、'''ローマ・カトリック教会'''とも呼ばれる<ref>[[八木谷涼子]] 『なんでもわかるキリスト教大事典』p58 朝日新聞出版 ISBN9784022617217</ref>。
 
「カトリック」の語源は[[ギリシア語]]の「カトリケー ({{lang|el|καθολική}})」や[[ラテン語]]では「カトリクス ({{lang|la|Catholicus}})」等で、「普遍的」「公同」などの意味である。ただし「カトリック」(普遍的)を自認・自称するキリスト教の教派は他にもあり([[#「カトリック」という名称|後述]])、「カトリック」の語彙は教派名にとどまらない概念を指すこともある。{{Main|カトリック (概念)}}
 
カトリック教会自身による定義は、[[教会憲章]] (Lumen Gentium<ref>[http://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/vat-ii_const_19641121_lumen-gentium_en.html DOGMATIC CONSTITUTION ON THE CHURCH LUMEN GENTIUM] The Holy See(バチカン公式サイト)</ref>) にみられる「[[ペトロ]]の後継者(ローマ教皇)と使徒の後継者たち([[司教]])によって治められる唯一、聖、カトリック、使徒的な教会」という表現にもっともよく表されている。
 
== 名称 ==
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===「カトリック」という名称===
[[File:ChristianityBranches-2JP2.png|thumb|500px|right|[[キリスト教諸教派の一覧|‎キリスト教諸教派]]の成立の概略を表す樹形図。さらに細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。]]
[[1054年]]の[[大シスマ]]による[[東西教会の分裂]]以前の教会で、[[ニカイア信条]]・[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]および[[カルケドン信条]]を信仰する教会([[アリウス派]]や[[単性論]]の対義語という意味。[[正統教義]]ともいう)を指して「'''[[カトリック (概念)|カトリック]]'''」と呼ぶこともある。この場合は現在のカトリック教会と[[正教会]]を含む。ただしこれはカトリック教会側の見方であって、正教会は東西教会分裂以前の教会を指して「正教会」と呼ぶ。カトリック教会も東方正教会も、東西教会の分裂以前の教会の直接の正統な後継者を自認していること、そして「カトリック」(普遍性)も「オーソドックス」(正しい讃美)もいずれもが東西教会分裂以前の教会においても重要な概念であったためにいずれの見解も誤りではなく、自らの重視する概念に由来する教会名の方を過去の教会名にも当てはめるために、このような事象が必然的に生じている。現在のカトリック教会・正教会のいずれもが自らの「カトリック」(普遍性)・「オーソドックス」(正しい讃美)を自覚しておりこの2つは排他的概念ではないことには注意が必要である。
 
また、狭義の「カトリック教会」には、ローマ教皇を中心としながらも伝統的な独自の東方典礼を維持する[[東方典礼カトリック教会]]の諸教会があるほか、冒頭文にもあるように「カトリック」を自称・自認する教派は他にも[[復古カトリック教会]]など[[独立カトリック教会]]の諸教会があり、これらと区別する意味で'''ローマ・カトリック教会'''とも呼ばれる。{{Main|キリスト教諸教派の一覧#カトリック}}
 
東方典礼カトリック教会や復古カトリック教会などは日本国内には実質的に存在せず、また日本では[[カトリック中央協議会]]のほか各[[教区|司教区]]が「カトリック○○司教区」(あるいは「カトリック○○教区」)という法人名となっているので、一般的には「ローマ」を付けて「ローマ・カトリック教会」と呼ぶ必要はなく、日本のカトリック信者もただ単に「カトリック教会」と呼ぶことがほとんどである。しかし広義の「カトリック」であると自称する他のキリスト教の教派と区別する場合や、[[正教会]]・[[聖公会]]・[[プロテスタント]]など他の教派の信者・教徒からは、「ローマ・カトリック教会」と呼ばれることも多い。
 
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カトリック教会の教説(教え)は「[[聖書]]と[[聖伝]]」という言葉であらわされるように、[[旧約聖書]]、[[新約聖書]]および[[イエス・キリスト]]と[[使徒]]の教えに由来し、[[教父]]たちによって研鑽され、多くの議論を経て[[公会議]]などによって確立されてきたものである。[[使徒信条]]および[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条|ニケア・コンスタンティノープル信条]]を信条としている<ref>『[[カトリック教会のカテキズム]]』194,195 (p65) ISBN4877501010</ref>。特に[[宗教改革]]以降、[[トリエント公会議]]においてカトリック教会の教義が整理され、再確認された。さらに現代では[[第2バチカン公会議]]でも現代に生きる教会として教義の意味を見直した。
 
これらの教義は[[1992年]]に『[[カトリック教会のカテキズム]]』(CCC)(CCC) として[[ローマ教皇庁|教皇庁]]により編纂され、順次各国語に翻訳されている。これは、いわゆるローマ・カトリック教会だけでなく[[東方典礼カトリック教会]]の規範にもなっている。なお、[[イエズス会]]、[[フランシスコ会]]などはローマ・カトリック教会の組織内部の[[修道会]]であり、教義([[カテキズム]])については同じであるため、「イエズス会派」「フランシスコ教団」などと呼んだりプロテスタントの各教派と同列に扱うのは誤りである。
 
=== 公会議 ===
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=== 秘跡 ===
カトリック教会は伝統的に7つの[[秘跡]]([[サクラメント]])を認めてきた。秘跡とは、[[神の恵み]]を実際にもたらす感覚的しるしで、イエス・キリストによって制定され、教会にゆだねられたものである<ref>[[カトリック教会のカテキズム]]より。(『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』137頁、カトリック中央協議会 ISBN 978-4-87750-153-2 )2)</ref>。
* [[洗礼]] CCC1213-1284
* [[堅信]] CCC1285-1321
* [[聖体]] CCC1322-1419
* [[ゆるしの秘跡|ゆるし]] CCC1422-1498
* [[病者の塗油]] CCC1499-1532
* [[叙階]] CCC1536-1600
* [[婚姻の秘跡|結婚]] CCC1601-1666
なお、:数字は『[[カトリック教会のカテキズム]]』(CCC) (CCC) において説明がある箇所の項目番号をあらわすもので、詳細に関しては各項目の記述あるいは『カトリック教会のカテキズム』の該当箇所を参考のこと。
 
なお、数字は『[[カトリック教会のカテキズム]]』(CCC)において説明がある箇所の項目番号をあらわすもので、詳細に関しては各項目の記述あるいは『カトリック教会のカテキズム』の該当箇所を参考のこと。
 
=== 教義についての他教派との関係 ===
カトリック教会では、[[1054年]]の[[正教会]]との分裂や、それよりもはるかに古い[[エフェソ公会議]]や[[カルケドン公会議]]における分裂であっても、実際に分裂の直接の原因となったのは、本質的なことではなく些細な教義論争であると捉えている。それをよく示すのは、[[1994年]]11月に発布された『キリスト理解におけるカトリック教会とアッシリア東方教会の共同宣言<small>([[:en:Common Christological Declaration Between the Catholic Church and the Assyrian Church of the East|英語版]])</small><ref>[http://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_councils/chrstuni/documents/rc_pc_chrstuni_doc_11111994_assyrian-church_en.html COMMON CHRISTOLOGICAL DECLARATION BETWEEN THE CATHOLIC CHURCH AND THE ASSYRIAN CHURCH OF THE EAST] The Holy See(バチカン公式サイト)</ref>』である。これはカトリック教会の[[教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]と[[アッシリア東方教会]]の[[総主教]]{{仮リンク|マル・ディンハ4世|en|Dinkha IV}}の間で調印された。アッシリア東方教会とカトリック教会の分裂は、[[431年]]のエフェソ公会議で争われた「[[テオトコス論争]]」という[[聖母マリア]]の称号をめぐる論争が原因となっている。これは「神の母」と「キリストの母」という称号のどちらが正しいかということが論議となったものである。『共同宣言』では、「どちらの呼び方も同じ信仰を表明したものであり、両教会は互いの典礼と信心を尊重する」と述べている。
 
さらに難しいのは正教会との合同問題である。カトリック教会側では、カトリック教会と正教会が合同するためには、教義の問題よりも互いの伝統に関する問題が大きな障害となっていると考えている。たとえば、[[教皇|ローマ教皇]]の首位権をどう評価するかという問題や、互いの典礼や信心における差異をどう尊重しあうかという問題になっているとする。一方、正教会の側からは、対立は[[フィリオクェ問題]]という基本的教義の不一致にあり、首位権や不可謬権の問題もたんなる伝統の問題ではなく教義上の問題と捉えている(アメリカ正教会の研究版新約聖書では、一致の主な障害を、フィリオクエ問題と教皇不可謬権であると指摘している)。また東方側からは十字軍問題や東方布教などのカトリックからの姿勢に対する反発もある。カトリック教会で用いられる「教導権」という言葉は、信徒を教え導く権威のことを示している。この権威は[[神学者]]のものではなく、司教たちのものである。カトリックの理解では、人々がある教えを自分勝手に理解するとかならず矛盾や対立が生じることになると考える。[[ユダヤ人]]の教育において、指導者が[[トーラー]]を声に出して読みながら、覚えさせるという伝統があるが、これは[[ヘブライ語]]の文章は母音が表記されていないため、さまざまな読み方が可能であったためだが、そこにおいては口伝が文章を確定させる。これがカトリック教会が聖書と同様に聖伝(聖なる伝承)を尊重することのたとえとして用いられる。
 
カトリック教会と[[プロテスタント]]の諸教会との間での教義的な差異は、東方教会よりさらに大きい。プロテスタントは、カトリック教会が使徒本来の教えをゆがめてきたと考えてきた。一方カトリック教会側は、[[2007年]]の「[[教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答]]」において「16世紀の[[宗教改革]]から生まれたキリスト教共同体([[プロテスタント]])は、[[使徒継承]]による[[司祭]]職の[[秘跡]]を欠くため、カトリックの教えによれば、固有の意味で『教会』と呼ぶことはできない」としている<ref>[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/ecclesiology07/index.htm 教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答(日本語訳)] カトリック中央協議会</ref>。
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=== 奇蹟 ===
カトリック教会の公認、未公認、または非公認のあらゆる奇蹟がある。
{{main|[[聖母の出現]]、[[|不思議のメダイ]]、[[|列聖]]等}}
 
== 典礼 ==
[[ファイル:BentoXVI-51-11052007 (frag).jpg|thumb|150px|ブラジルでのミサにおける教皇ベネディクト16世]]
カトリック教会の信仰生活の中心にあるのは、聖体祭儀の'''[[ミサ]]'''である。ミサの中で信者は[[聖体]]の秘跡を受ける([[聖体拝領]])。[[主日]]<ref name="shujitsu missa" />と守るべき祝日にミサにあずかることは、信徒としてのつとめであるとされている。
 
ミサ以外の重要な典礼行為として、「[[聖務日課]]」があげられ、修道院などで必ず行われている。これは本来「時課の祈り」という意味で、一日の各時間を祈りをささげることで聖化することが目的である。日課の中で特に重要なのは、ラウズとヴェスパ(ヴェスペレ)と呼ばれる朝の祈りと晩の祈りである。これらに加えていくつかの祈りが一日の中でおこなわれる(かつて九時課、六時課、三時課とばれた)。それ以外に読書課という祈りもあり、そこでは祈りと共に、聖書朗読と聖人伝や古典的な著作が読まれる。聖務日課の中心となるのは旧約聖書の詩篇である。
 
== 聖職者と組織 ==
=== ローマ教皇と枢機卿団 ===
[[画像:Pope Benedictus XVI january,20 2006 (2).JPG|thumb|150px|前ローマ教皇(現名誉教皇)<br>[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]]]
カトリック教会が他のキリスト教諸教派と比べて特徴的な点として、まずあげられるのは[[教皇|ローマ教皇]]と信徒の位置付けである。ローマ教皇とは、カトリック教会の総代表者で、全カトリック教会の裁治権と統治権を持つものである([[日本語]]では「法王」と呼ばれることも多いが、カトリック教会での正式名称は「教皇」であり、「法王」という言いかたは日本国にとっての[[バチカン市国]]の首長を表す外交用語でしかない)。ローマ教皇は[[使徒]][[ペトロ]]による[[使徒座]]の後継者であり、現在は[[バチカン]]に居住する。なお、「使徒座」という言葉はバチカン市国の行政組織を指す場合もあり、その用法においては[[ローマ教皇庁]]とも呼ばれる。バチカン市国は[[1929年]]に成立した独立国であるが、カトリック教会が政治的に特定の国に組み入れられることなく、独立していることを示す意味がある。
 
『[[カトリック教会のカテキズム]]』第882項は、『教会憲章 (Lumen Gentium)』を引用して次のように述べている。
:「『教皇が、ローマの[[司教]]にしてペトロの後継者である』ことが、変わらず目にみることのできる信仰の源泉にして基礎である。」
教皇首位権はペトロに由来する立場と権能によって行使される[[教皇不可謬説|教皇不可謬性]]を含む。これは「信仰と道徳に関して、教皇が教会の頭として使徒座 (Ex Cathedra) から荘厳に宣言する」場合に関して、教皇は誤り得ないという教義である。これはあくまで非常に限定された場合であり<ref>多くの神学者の見解では、教皇不可謬権が行使されたのは[[1854年]]の「(聖母の)[[無原罪の御宿り]]」と[[1950年]]の「[[聖母の被昇天]]」の2例だけである。詳細は[[教皇不可謬説]]を参照。</ref>、通常の理解ではその首位権というのは、全司教の中におけるローマ司教の優位権のことを指している。
 
教皇選挙に関する最新の規定は、[[1996年]]の[[使徒憲章]]「ウニベルシ・ドミニ・グレギス (Universi Dominici Gregis)」に示されている。そこで定められているのは、教皇選挙においては選挙者たる枢機卿団は外界との連絡から隔離され、[[システィーナ礼拝堂]]において議論と投票を繰り返すということである。この選挙を「[[コンクラーヴェ]]」という。新教皇の決定にいたるためには投票者の3分の2以上の票を集める必要がある。また慣例によって、教皇選挙に参加できるのは80歳未満の[[枢機卿]]に限られる。
教皇首位権はペトロに由来する立場と権能によって行使される[[教皇不可謬説|教皇不可謬性]]を含む。これは「信仰と道徳に関して、教皇が教会の頭として使徒座(Ex Cathedra) から荘厳に宣言する」場合に関して、教皇は誤り得ないという教義である。これはあくまで非常に限定された場合であり<ref>多くの神学者の見解では、教皇不可謬権が行使されたのは[[1854年]]の「(聖母の)[[無原罪の御宿り]]」と[[1950年]]の「[[聖母の被昇天]]」の2例だけである。詳細は[[教皇不可謬説]]を参照。</ref>、通常の理解ではその首位権というのは、全司教の中におけるローマ司教の優位権のことを指している。
 
[[教会法]]の規定によって、教皇は自主的に退位することが可能であり、歴史的にも教皇が退位したことは何度かある。[[1294年]]に退位した[[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]は、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』の中で「教皇位退位の咎」により地獄で責め苦を受けるさまを描かれているが、これはあくまでダンテの解釈であり、カトリック教会からは[[1313年]]に[[列聖]]されている。[[1415年]]に[[大シスマ]]の終息のために退位に同意した[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]以後約600年にわたって教皇退位は行われず、教皇は事実上の終身制ともみなされていたが、[[2013年]]2月に[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が健康問題を理由に退位を表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/international/update/0211/TKY201302110235.html|title=ローマ法王、28日に退位「職務継続が難しくなった」|work=asahi.com|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2013-02-11|accessdate=2013-04-17}}</ref>([[ベネディクト16世の退位]])。
教皇選挙に関する最新の規定は、[[1996年]]の[[使徒憲章]]「ウニベルシ・ドミニ・グレギス(Universi Dominici Gregis)」に示されている。そこで定められているのは、教皇選挙においては選挙者たる枢機卿団は外界との連絡から隔離され、[[システィーナ礼拝堂]]において議論と投票を繰り返すということである。この選挙を「[[コンクラーヴェ]]」という。新教皇の決定にいたるためには投票者の3分の2以上の票を集める必要がある。また慣例によって、教皇選挙に参加できるのは80歳未満の[[枢機卿]]に限られる。
|url = http://www.asahi.com/international/update/0211/TKY201302110235.html
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}}</ref>([[ベネディクト16世の退位]])。
 
枢機卿団は、教皇庁で働く高位聖職者や世界の重要な[[司教区]]の司教たちの中から教皇によって任命される。教皇選挙に参加できるのは80歳未満の枢機卿であるという慣例を逆手にとって、80歳以上の聖職者で教会に大きな貢献をしたものが名誉職的に枢機卿にげられることもよくおこなわれる。そのような枢機卿の中には、神学者や[[ベトナム]]などで、政府によって長期にわたって投獄されていたような司教も含まれる。
[[教会法]]の規定によって、教皇は自主的に退位することが可能であり、歴史的にも教皇が退位したことは何度かある。[[1294年]]に退位した[[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]は、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』の中で「教皇位退位の咎」により地獄で責め苦を受けるさまを描かれているが、これはあくまでダンテの解釈であり、カトリック教会からは[[1313年]]に[[列聖]]されている。[[1415年]]に[[大シスマ]]の終息のために退位に同意した[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]以後約600年にわたって教皇退位は行われず、教皇は事実上の終身制ともみなされていたが、[[2013年]]2月に[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が健康問題を理由に退位を表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/international/update/0211/TKY201302110235.html|title=ローマ法王、28日に退位「職務継続が難しくなった」|work=asahi.com|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2013-02-11|accessdate=2013-04-17}}</ref>([[ベネディクト16世の退位]])。
 
枢機卿制は、[[1059年]]に教皇選挙権がローマとその郊外に在住する聖職者に限定されたことに由来する。これは枢機卿団の本来の目的が教皇の顧問団であったことを示している。枢機卿をあらわす[[英語]]のcardinal という言葉は[[ラテン語]]のカルド(蝶番)に由来している。やがて、ローマ以外の聖職者でも教皇に任命されることで枢機卿団に加わり、ローマで働くという制度が確立してゆく。
枢機卿団は、教皇庁で働く高位聖職者や世界の重要な[[司教区]]の司教たちの中から教皇によって任命される。教皇選挙に参加できるのは80歳未満の枢機卿であるという慣例を逆手にとって、80歳以上の聖職者で教会に大きな貢献をしたものが名誉職的に枢機卿にあげられることもよくおこなわれる。そのような枢機卿の中には、神学者や[[ベトナム]]などで、政府によって長期にわたって投獄されていたような司教も含まれる。
 
枢機卿制は、[[1059年]]に教皇選挙権がローマとその郊外に在住する聖職者に限定されたことに由来する。これは枢機卿団の本来の目的が教皇の顧問団であったことを示している。枢機卿をあらわす[[英語]]のcardinal という言葉は[[ラテン語]]のカルド(蝶番)に由来している。やがて、ローマ以外の聖職者でも教皇に任命されることで枢機卿団に加わり、ローマで働くという制度が確立してゆく。
 
=== 司教 ===
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司教の本来の職務は、[[教区]]の責任者として教区内の教会を統治することで、キリストの代理者として、[[司祭]]・[[助祭]]の協力を得て司牧の務めを果たすものとされている<ref>『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』175頁</ref>。通常の司教(教区司教)のほかに、([[大司教]]など職務の多い)司教を補佐するために「協働司教」や「[[補佐司教]]」が任命されることがある<ref>[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/news/kohda.htm 「東京大司教区に補佐司教任命」(2004年12月2日 カトリック中央協議会)]</ref>。司教座(教区司教)が何らかの事情で空位となった場合、協働司教は直ちに教区司教に着任して職務を引き継ぐことになるが、補佐司教はそのような継承権を持たない。また、特定の教区を管轄していなくても、教皇庁における職務に就くために司教に任命されるケースもある。
 
司教は、[[按手]]と祈りによって司祭・助祭に[[叙階]]の[[秘跡]]を授ける権能を与えられるが、司教もまた叙階の秘跡によってその地位を受けるものである(ただし司教叙階の場合は、教皇から委任された司教だけが司教叙階を執行することができ、少なくとも2名の共同聖別司教が必要である、と教会法で規定されている叙階の秘跡の効果は生涯消えることはないため、高齢等によって司教の実質的な職務を引退した後や、司教の職務を停止された場合でも司教の権能・称号は終生保たれる<ref>『カトリック教会の教え』231頁(日本カトリック司教協議会 監修・カトリック中央協議会 発行) ISBN 978-4-87750-106-8</ref>。なお、司教の中には「大司教」や「総大司教」といった地位に上げられるものもいるが、これらは叙階の秘跡による位階ではなく、教区の規模に応じて定められた教会行政上の職掌を表すものである(例えば、司祭が司教に叙階されることはあっても、司教が大司教に叙階されることはない)。
 
地域の司教たちは定期的に会合を開いて、さまざまな問題について討議する。これを司教会議([[シノド|シノドス]])という。シノドスでは典礼などの問題に関しては決議することが出来るが、特定の司教の処遇に関してなどの決議のためには、有資格司教の3分の2以上の同意と教皇庁の裁可が必要とされている。
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歴史的には使徒たちの多くや初期の聖職者たちは既婚者であったが、[[西方教会]]においては古代教会から司祭の独身制は推奨されており、[[修道会]]出身の[[教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]による[[グレゴリウス改革]]以降、上級聖職者(司教、司祭、助祭)の[[キリスト教における独身制|独身制]]が徹底されてきた。ただ例外として、[[東方典礼]]を行う教会([[東方典礼カトリック教会]])や[[プロテスタント]]などからの改宗者の場合は既婚者が例外的に認められる事がある。また、[[第2バチカン公会議]]以降、[[終身助祭]](司祭となる事を前提としない助祭)の制度が再興され、この場合のみ既婚男性の叙階が認められている。しかし、どちらにしても叙階後の[[結婚]]や既婚者の妻が亡くなった場合の再婚は認められていない。
 
また、教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の時代まで、守門、読師、祓魔師、侍祭という下級聖職(下級品級)および[[副助祭]]という聖職位階が存在したが、[[1972年]]8月15日に発布された自発教令「ミニステリア・クエダム」によって[[1973年]]に廃止され、現代では[[聖体奉仕者]]と[[祭壇奉仕者]]の2つの「奉仕職」に改められて、かつてのような聖職位階として扱われることはなくなった<ref>『カトリック教会の教え』251-254頁</ref>。
 
今も日本の歴史書や歴史教科書にそのように書かれることがあるが、かつてのカトリック教会においては教皇を頂点に、司教、司祭、信徒がいるというピラミッド型のヒエラルキー構造が強調される傾向があった。しかしこれは[[第2バチカン公会議]]以降に見直され、現代では従来の聖職者至上主義の修正が図られていて、「神の民の教会論」により、すべての信徒がキリストの祭司職にあずかっていて教会の宣教活動、典礼活動、司牧活動を遂行する者であるとしている。この信徒の使命は「信徒使徒職」と呼ばれている<ref>『カトリック教会の教え』252頁</ref>。
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== カトリック信徒の分布 ==
[[Image:Catholic population.svg|thumb|250px|人口に占めるカトリック信徒の比率 色が濃くなるほど比率が高い]]
全世界に存在する(洗礼を受けた)カトリック信徒の総数は12億人に上るとみられている。カトリック信徒は世界中に存在しているが、特に多いのは[[ヨーロッパ]]と[[アメリカ大陸]]である。[[2000年]]度の統計では、南北アメリカに5億2000万人、ヨーロッパに2億8000万人、[[アフリカ]]に1億3000万人、[[アジア]]に1億700万人、[[オセアニア]]に800万人である<ref>{{Cite web
|url = http://www.ewtn.com/library/chistory/annu2000.htm
|accessdate = 2015-09-04
|title = ANNUARIUM STATISTICUM ECCLESIAE: Published for 2000
}}</ref>。
 
ヨーロッパでカトリック信徒の多い国は、ラテン諸国といわれる国で[[フランス]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、非ラテン諸国では[[オーストリア]]、[[ベルギー]]、[[クロアチア]]、[[チェコ]]、[[ハンガリー]]、[[アイルランド]]、[[リトアニア]]、[[マルタ]]、[[ポーランド]]、[[スロバキア]]、[[スロベニア]]である。[[ドイツ]]、[[オランダ]]、[[スイス]]および[[北アイルランド]]はカトリックとプロテスタントがほぼ同数である。
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== カトリック教会への批判・論争、事件など ==
[[宗教改革]]以来、[[プロテスタント]]から、教皇の首位権・使徒継承性に対して「『聖書』の曲解、根拠なき伝承([[聖伝]])に基づくもの」と批判されている。同様にプロテスタントが『聖書』に根拠を持たないと主張する「[[秘跡]]」や「[[聖母マリア|マリア]]崇敬・[[聖人#キリスト教|聖人]]崇敬<ref>カトリック教会では、聖母マリアや諸聖人を神として敬っているわけではないため、「マリア崇拝」等と称するのは誤りである。</ref>」について批判を受ける。歴史的には、カトリック教会が封建領主として君臨したこと、[[マルティン・ルター]]によって、[[聖遺物]]崇敬・[[贖宥状]](免罪符)発行を批判されたが、[[対抗改革]]によって中止された。一方、改革の中で[[原理主義]]的姿勢が強まって「[[禁書目録]]」の作成がなされたが、このような動きは[[学問の自由]]や[[言論の自由]]を求める[[学者]]と衝突を招いた。<!--
 
<!--カトリック教会を批判しようと、まことしやかに、歴史学的には正しくないお話が語られることがある。カトリック教会は、コペルニクスの地動説が書かれた『天球回転論』の出版を容認しており、人々に自由に読ませていた。この点、カトリック教会はおおらかであったのである。実は、地動説を最初に宗教的に批判したのは、プロテスタントのマルティン・ルターだった。<ref>ルターは『天球回転論』の出版の数年前に、地動説の内容の噂を聞いて次のように発言した(出典:高橋 憲一『コペルニクス・天球回転論』解説)
 
<!--カトリック教会を批判しようと、まことしやかに、歴史学的には正しくないお話が語られることがある。カトリック教会は、コペルニクスの地動説が書かれた『天球回転論』の出版を容認しており、人々に自由に読ませていた。この点、カトリック教会はおおらかであったのである。実は、地動説を最初に宗教的に批判したのは、プロテスタントのマルティン・ルターだった<ref>ルターは『天球回転論』の出版の数年前に、地動説の内容の噂を聞いて次のように発言した(出典:高橋 憲一『コペルニクス・天球回転論』解説)
:この愚者は天文学全体を転倒させようとしている。ヨシュアが、留まれ、と言ったのは太陽に対してであって、地球に対してではない([[マルティン・ルター]]の発言)。
実際は地動説に対して最初に抑圧的な態度をとったのはルターなどのプロテスタントだったのである。
プロテスタンティズムというのは、その根本に『聖書』を文字通りに解釈する方針を含んでいる(注 - [[:en:Five solae]] [[五つのソラ]])。だから『聖書』の記述と矛盾する説に対しては非常に批判的となる。</ref><ref>注 - ガリレオは、同時代の学者に対して、不必要なまでに自著で批判して喧嘩を売ったり、権力者の機嫌もそこねるようなことも繰り返し、彼らを敵にまわしてしまうようなことを繰り返していたため、結果として当時の貴族や権力者たちから選出される教皇まで政治的に巻き込まれて、彼の説を禁止せざるをえなくなった、といういきさつがある。(マリアーノ・アルティガス『ローマのガリレオ:天才の栄光と破滅』大月書店, 2005)</ref><ref>ところが、後の時代の、プロテスタント信者の科学者などによって、ことさらカトリックを悪者にしようと、自分たちに都合よく話をねじまげてまことしやかに語ることが横行した。また19世紀、科学者たちは世の中の人々から価値をあまり認められておらず、彼らは何とか社会的に認めてもらいたいという政治的な意図から、勧善懲悪的に自分たちが悪と闘う善人であるかのようなフィクションを作って語ること(一種の[[偽史]]を語ること)をしばしば行われるようになった。その結果、歴史資料が実際に示すのとは異なる、そうした嘘のストーリーが世間に、自然科学者の間でまことしやかに流布するようになったのであり、現代でも彼ら自然科学者は若い人たちにそうした嘘を語りたがる。</ref>本当は、ガリレオ・ガリレイは熱心なカトリック信者であった。だから娘を若いうちに修道院に入れたのであった。-->
 
[[啓蒙主義]]者にとっては、カトリック教会による社会生活の支配は克服すべき課題であった。[[フランス革命]]では[[ロベスピエール]]が宗教を廃止し、「[[理性]]」(あるいは、「最高存在」)に対する崇拝をそれまでの宗教に代わるものと位置付けた。このような過程を経て、カトリック教会は寛容政策に転換し、信徒や聖職者が他宗教の祭祀・儀式に列席することも認められるようになった。しかし、[[21世紀]]においても(プロテスタントの[[保守]]的な教会同様に)[[胎児]]も含めた、かけがのない[[生命]]を尊重するという崇高な理念に基づき[[人工受精]]や[[中絶]]、[[避妊]]、[[同性愛]]、[[ES細胞]]研究への反対姿勢は変えておらず、この点を批判されることがある(ただしこれらについては他教派や[[プロライフ]]の関係者にも賛成する者がおり、賛成者とカトリック教会が連携することもある一例として[[マンハッタン宣言]]を参照)。「妊娠中絶の支持者には聖体の秘跡の授与を制限すべきだ」という教会関係者の発言が物議を醸しており、一種の"[[教条主義]]"とも揶揄されている{{誰|date=2010年7月}}。
実際は地動説に対して最初に抑圧的な態度をとったのはルターなどのプロテスタントだったのである。
プロテスタンティズムというのは、その根本に『聖書』を文字通りに解釈する方針を含んでいる(注 - [[:en:Five solae]] [[五つのソラ]])。だから『聖書』の記述と矛盾する説に対しては非常に批判的となる。</ref>。<ref>注 - ガリレオは、同時代の学者に対して、不必要なまでに自著で批判して喧嘩を売ったり、権力者の機嫌もそこねるようなことも繰り返し、彼らを敵にまわしてしまうようなことを繰り返していたため、結果として当時の貴族や権力者たちから選出される教皇まで政治的に巻き込まれて、彼の説を禁止せざるをえなくなった、といういきさつがある。(マリアーノ・アルティガス『ローマのガリレオ:天才の栄光と破滅』大月書店, 2005)</ref>
<ref>ところが、後の時代の、プロテスタント信者の科学者などによって、ことさらカトリックを悪者にしようと、自分たちに都合よく話をねじまげてまことしやかに語ることが横行した。また19世紀、科学者たちは世の中の人々から価値をあまり認められておらず、彼らは何とか社会的に認めてもらいたいという政治的な意図から、勧善懲悪的に自分たちが悪と闘う善人であるかのようなフィクションを作って語ること(一種の[[偽史]]を語ること)をしばしば行われるようになった。その結果、歴史資料が実際に示すのとは異なる、そうした嘘のストーリーが世間に、自然科学者の間でまことしやかに流布するようになったのであり、現代でも彼ら自然科学者は若い人たちにそうした嘘を語りたがる。</ref>本当は、ガリレオ・ガリレイは熱心なカトリック信者であった。だから娘を若いうちに修道院に入れたのであった。
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[[啓蒙主義]]者にとっては、カトリック教会による社会生活の支配は克服すべき課題であった。[[フランス革命]]では[[ロベスピエール]]が宗教を廃止し、「[[理性]]」(あるいは、「最高存在」)に対する崇拝をそれまでの宗教に代わるものと位置付けた。このような過程を経て、カトリック教会は寛容政策に転換し、信徒や聖職者が他宗教の祭祀・儀式に列席することも認められるようになった。しかし、[[21世紀]]においても(プロテスタントの[[保守]]的な教会同様に)[[胎児]]も含めた、かけがいのない[[生命]]を尊重するという崇高な理念に基づき[[人工受精]]や[[中絶]]、[[避妊]]、[[同性愛]]、[[ES細胞]]研究への反対姿勢は変えておらず、この点を批判されることがある(ただしこれらについては他教派や[[プロライフ]]の関係者にも賛成する者がおり、賛成者とカトリック教会が連携する事もある・一例として[[マンハッタン宣言]]を参照)。「妊娠中絶の支持者には聖体の秘跡の授与を制限すべきだ」という教会関係者の発言が物議を醸しており、一種の"[[教条主義]]"とも揶揄されている{{誰|date=2010年7月}}。
 
なお、プロテスタントや[[聖公会]]の中には“教会内における[[女性]]の首位権”(女性聖職者または女性牧師)を認める教会もあるが、カトリック教会では女性は司祭に叙階されない。教義上、聖職者になれるのは[[男性]]信者に限られている。[[フェミニスト]]はこれに対する批判を行う者もいるが、カトリック教会側はあくまでも教義に基づく制度であるから「女性蔑視」ではないと説明している。また、聖職者には世俗の権力は一切存在しないので「[[女性差別]]」とは言いがたい、との説明もあるが、国や地域、組織によっては、聖職者が世俗的な権力行使に関わったり、その言動が世俗の権力に大きな影響を及ぼす例もあり、至当とは言えない。また、かつては女性助祭や旧約時代の女性預言者も存在したこともあり、この制度が復活することがないとは言えない。
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== 関連文献 ==
* フランシスコ・マルナス、『日本キリスト教復活史』、[[1985年]]、ISBN 4622012588
* 南山大学監修、『第2バチカン公会議公文書全集』、[[1986年]]、ISBN 4805656042
* 片岡弥吉、『浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧』、[[1991年]]、ISBN 4480025359
* 日本カトリック司教協議会監修、『カトリック教会のカテキズム』、[[2002年]]、ISBN 4877501010
* カトリック中央協議会『カトリック教会・情報ハンドブック 2010』- [[2009年]][[11月10日]]発行 ISBN 978-4-87750-541-7
 
== 関連項目 ==
* [[カトリシズム]]
* [[教会法]]
* [[両性説]]
* [[教会論]]
* [[三位一体論]]
* [[終末論]]
* [[原罪]]
* [[教皇不可謬説]]
* [[教皇首位説]]
* [[修道院]]
* [[聖母マリア]]
** [[無原罪の御宿り]]
** [[聖母の被昇天]]
** [[ロザリオ]]
** [[アヴェ・マリア]]
** [[不思議のメダイ]]
* [[聖人]]・[[福者]]
** [[守護聖人]]
** [[日本二十六聖人]]
* [[日本キリスト教史]]
** [[キリシタン]]
** [[キリシタン大名]]
** [[隠れキリシタン]]
* [[日本におけるカトリック教会]]
* [[ミサ曲]]
** [[グレゴリオ聖歌]]
* [[ゴシック建築]]
* [[オプス・デイ]]
* [[解放の神学]]
* [[カトリック正義と平和協議会]]
* [[公同の教会]]
*[[ラテラノ条約]]
 
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{{Commonscat|Roman Catholic Church}}
 
* [http://w2.vatican.va/content/vatican/en.html バチカン公式サイト] {{fr icon}}{{en icon}}{{it icon}}{{pt icon}}{{es icon}}{{de icon}}{{ar icon}}{{zh icon}}{{la icon}}
* [http://www.radiovaticana.org/gia/index.asp バチカン放送局]{{ja icon}}
* [http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/ カトリック中央協議会]{{ja icon}}
* [http://www.cwjpn.com/ カトリック新聞・カトリック中央協議会インデックス]{{ja icon}}
* [http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/pope.htm カトリック中央協議会 - 「ローマ法王」と「ローマ教皇」、どちらが正しい?]{{ja icon}}
 
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