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[[ファイル:MunichAgreement.jpg|thumb|220px|right|ミュンヘン会談からの帰国後に会見するチェンバレン]]
'''アーサー・ネヴィル・チェンバレン''' ({{Lang-en|Arthur Neville Chamberlain}} [[1869年]][[3月18日]] - [[1940年]][[11月9日]]) は、[[イギリス]]の政治家。[[イギリスの首相|首相]](在任:[[1937年]][[5月28日]] - [[1940年]][[5月10日]])。[[外務・英連邦大臣|外相]]時代に[[ロカルノ条約]]を締結し、[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[オースティン・チェンバレン]]は異母兄にあたる
 
== 生涯 ==
===生い立ち===
[[バーミンガム]]市長や[[植民地]][[大臣]]などを歴任した[[ジョゼフ・チェンバレン]]を父としてバーミンガムのサウスボーンで生まれる。[[外務・英連邦大臣|外相]]時代に[[ロカルノ条約]]を締結し、[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[オースティン・チェンバレン]]は異母兄にあたる。6歳の時に母親が死去した。
 
[[ラグビー校]]で教育を受け、さらにメイソン・サイエンス・スクール([[バーミンガム大学]]の前身)でも学び、科学と[[冶金学]]([[金属工学]])の学位を得て、卒業後は[[監査法人]]に就職した。一方で父ジョゼフが経営していたイギリスの[[植民地]]の[[バハマ]]の農園へ派遣され、そこで長く農園経営も行った。
 
[[ラグビー校]]で教育を受け、さらにメイソン・サイエンス・スクール([[バーミンガム大学]]の前身)でも学び、科学と[[冶金学]]([[金属工学]])の学位を得て、卒業後は[[監査法人]]に就職した。一方で父ジョゼフが経営していたバハマの農園へ派遣され、そこで長く農園経営も行った。
=== 政治経歴 ===
その後実業界で成功を収め、この時に得た名声を後ろ盾として[[1911年]]に[[バーミンガム]]市議に立候補し当選し、[[1915年]]には父同様バーミンガム市長となる。[[1918年]]に下院議員となり、[[1923年]]から[[1937年]]にかけて保健大臣、[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]などの要職を務めた。
 
=== 首相職 ===
==== 内政 ====
[[1937年]]、[[スタンリー・ボールドウィン]]の後を受けて、[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首、首相の座に就く。資本家寄りとされる保守党党首にもかかわらず、就任後すぐに、女性や子供の労働時間に制限を掛ける法律を通過させたほか、そのほかにも有給休暇関連法や家賃統制など、労働者の権利を優先させる法律の制定に尽力した。
 
==== 外交 ====
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これは、ドイツの関心を[[ソビエト連邦|ソ連]]に向けさせる意味と、イギリスの防備の時間稼ぎをする意味があった。当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする[[共産主義]]陣営や、彼らによる[[共産主義革命]]の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの[[勢力均衡|抑止力]]となることを期待したのである。[[スペイン内戦]]に不介入で通したのも、介入すればそれが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせるだけであるという判断があったからだった。
 
一連のチェンバレンによる宥和政策は「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として非難されている。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「[[第二次世界大戦]]勃発前の宥和政策の典型」とされ、第二次世界大戦を経た現在では、専門家並びに一般は強く批判されることが多い。
 
=== 失意の辞任とその後 ===
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=== 死去 ===
その後、ドイツによるイギリスをはじめとする連合国への圧力が強まる中、体調が悪化したため1940年9月に閣僚から退いている。同年[[11月9日]]に[[胃癌]]により死去した。
 
== 脚注 ==