「フランス君主一覧」の版間の差分

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以下の表に掲載した以外に、1340年から1360年および1369年から1801年にかけては、[[イギリス君主一覧|イングランド王およびグレートブリテン王]]もフランス王の称号を自称した。ごく短い期間ではあるが、この称号が実際に一定の根拠を持っていた時期もある。すなわち、1420年の[[トロワ条約]]により[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]はその義子[[ヘンリー5世 (イングランド王)|イングランド王ヘンリー5世]]を摂政および継承者として認めたのである。ヘンリー5世がシャルル6世に先立ったため、ヘンリー5世の子[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]は祖父シャルル6世からフランス王の称号を継承した。北フランスの大部分は1435年までイングランドの支配下にあったが、1453年までにイングランドは[[カレー (フランス)|カレー]](および[[チャンネル諸島]])を除いたフランス全土から敗退し、カレーも1558年にフランスの手に落ちた。しかしながらイングランド王、のちグレートブリテン王は1801年の[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]成立までフランス王を自称し続けた。1337年から1422年の間にも、断続的に複数のイングランド王がフランス王を自称している。
 
君主号としては、[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]までは「フランクの王」({{lang-la|Rex Francorum}})が用いられた。[[ナバラ王国]]の王位を兼ねた[[カペー朝]]末期(フィリップ4世以降)および[[ブルボン朝]]歴代の国王は「フランスとナバラの王」(roi de France et de Navarre)を称した。[[1791年憲法]]が効力を有した短い期間(1791年から1792年)および1830年の[[フランス7月革命|7月革命]]後には「フランスの王」(roi de France)ではなく「[[国民的君主制|フランス国民の王]]」(roi des Français)が用いられた。[[ボナパルト朝|ボナパルト家]]の君主[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]、[[ナポレオン2世|2世]]、[[ナポレオン3世|3世]]は「[[フランス国民皇帝|フランス人の皇帝]]」(empereur des Français)を使用した。
 
「フランス」の名は[[ゲルマン人|ゲルマン]]の一部族である[[フランク人]]に由来する。メロヴィング朝は伝説上の人物とされる部族長[[ファラモン]]に遡るが、実際に最初の王となったのは[[クロヴィス1世]]である。その死後、王国は息子たちの間で[[ネウストリア]] 、[[パリ]]、[[ブルグント]]および[[アウストラシア]]に分割される。その後も分裂とメロヴィング朝の王たちの間での闘争が続いた。
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|[[ファイル:Louis-Philippe de Bourbon.jpg|80px]]
|{{Nowrap|[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ=フィリップ1世]]}}<br />(民王)<br />(Louis Philippe, {{Nowrap|''le Roi Citoyen'')}}
| style="width:8em" |{{Nowrap|1830年8月9日}}
| style="width:8em" |{{Nowrap|1848年2月24日}}