「モーリス・ラヴェル」の版間の差分

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[[1928年]]、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。[[ニューヨーク]]では満員の聴衆の[[スタンディングオベーション]]を受ける一方、ラヴェルは[[黒人霊歌]]やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルの名声は世界に鳴り響いた。同年、[[オックスフォード大学]]の名誉博士号を授与される。
 
アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]』(1928年)、『[[左手のためのピアノ協奏曲 (ラヴェル)|左手-のためのピアノ協奏曲]]』([[1930年]])、『[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲 ト長調]]』([[1931年]])、『[[ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ]]』([[1933年]])の、わずか4曲である。
 
ラヴェルは[[1927年]]頃から軽度の記憶障害や言語症に悩まされていたが、[[1932年]]、パリで[[タクシー]]に乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故にあった同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取り掛かるが、楽譜や署名を頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。字を書くときに文字が震え、[[筆記体]]は[[活字体]]になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった[[水泳]]ができなくなった。言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘している(どんな病気にかかっていたか、またその原因が交通事故によるものなのかどうかは諸説ある<ref>[[ピック病]]、ウェルニッケ[[失語症]]、[[アルツハイマー型認知症]]の説があった。行動に支障をきたしながらも、正確な知覚を示す数々の記録から、全般的痴呆を伴わない緩徐進行性失語症 slowly progressive aphasia without global dementia が有力な候補として挙がっている。参考文献:岩田誠『脳と音楽』メディカルレビュー社 2001年 ISBN 4896003764</ref>)。
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[[1933年]]11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、この頃には手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化しており、コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。[[1934年]]には周囲の勧めで[[スイス]]の[[モンペルラン]]で保養に入ったが、いっこうに健康が回復せず、病状は悪化の一途をたどった。[[1936年]]になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってボーっとしていることが多くなった。たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させたりで、周囲を困惑させた。
 
病床にあって彼はオペラ『ジャンヌ・ダルク』などいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進める事が出来なくなったと伝えられる。ある時友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟き、ま。同時期、ラヴェル別の友人に神経学者T・アラョアニャン博士・ダルク』診察構想受けるが、博士は失症や理解障害など脳神経学的な症状であると判断した。しかし脳内出血などを疑てい後、「だがこのオペヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得を完成さず、[[1937年]][[12月17日]]に脳外科医のC.ヴァンサン教授の執刀のもるこ手術を受けたきないだろうしかし腫瘍も出血も発見されず、脳一部に若干委縮が見られただけだった。しかも左脳の症状あるにかかわらず右脳を開頭し、萎縮した脳を膨らまそ完成して水を注入すなどし音も聴こえているがほとんど無意味なもだった。手術後一時的に容体それを書くこと改善したが、まもできく昏睡状態に陥り、意識が戻いかぬまま[[12月28日]]に息を引き取っね」とも述べ。62歳であっ。会葬には[[ダリウス・ミヨー]]、[[フランシス・プーランク]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]らが立会、遺体は[[ルヴァロワ=ペレ]](パリ西北郊)に埋葬された
 
同時期、ラヴェルは失語症などの権威であった神経学者[[:en:Théophile_Alajouanine|テオフィル・アラジョアニヌ]]の診察を受けるが、博士は失語症や理解障害、[[失行#.E8.A6.B3.E5.BF.B5.E9.81.8B.E5.8B.95.E5.A4.B1.E8.A1.8C|観念運動失行]]<ref>アラジョアニヌは1968年の自著『芸術的能力と失語症』で「自分の内面にある音楽を表出させることができなくなった」ラヴェル診察の所見をまとめており、岩田誠の本にも引用されている。</ref>など脳神経学的な症状であると判断した。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、[[1937年]][[12月17日]]に血腫や脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医[[:en:Clovis Vincent|クロヴィス・ヴァンサン]]の執刀のもとで手術を受けた。しかし腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に若干の委縮が見られただけだった。元々万が一の可能性に欠けて手術と言う決断をしたヴァンサンは、水頭症がないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうとして生理食塩水を注入し手術後は一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま[[12月28日]]に息を引き取った。62歳であった。会葬には[[ダリウス・ミヨー]]、[[フランシス・プーランク]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]らが立会い、遺体は[[ルヴァロワ=ペレ]](パリ西北郊)に埋葬された。
 
晩年を過ごした[[イヴリーヌ県]][[モンフォール=ラモーリー]]にあるラヴェルの最後の家は、現在[[ラヴェル博物館]]([http://www.ville-montfort-l-amaury.fr/6_ravel/musee.htm Musée Maurice Ravel])となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。