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[[大阪市]]に、祖父の代までは地元の[[庄屋]]で富裕[[郷士]]だった没落[[旧家]]の一族の子として生まれる。母方も新潟出自の東京系の旧家で祖父の代は遠縁に[[華族]](都筑[[男爵]]家)がいた[[士族]]。<ref>千坂恭二『歴史からの黙示』(田畑書店。1972年刊)</ref>
 
[[1968年]]頃に[[バクーニン]]の総破壊の思想と精神の影響を受けた超[[過激派]]のバクーニン主義者として、[[上宮高校]]在学の頃から[[アナキズム]]運動に参加し、高校生から浪人生の頃は、[[黒色高校生連盟]]、[[アナキスト高校生連合]]全国委員長や大阪[[全国浪人共闘会議|浪共闘]]社会革命左派として活動した。<ref>『VIEWS』(講談社。1993年12月22日発行、Vol.3 No.24 p.29)</ref>
 
[[1969年]]10月1日、[[アナキスト革命連合]](ARF)の一員として[[大阪芸術大学|大阪芸大]]占拠封鎖の夜襲闘争に突入部隊として参加。大阪府警と奈良県警の[[河内飛鳥]]一帯にかけての深夜の広範囲な包囲網と大規模な山狩りによって逮捕される。<ref>同上</ref>
 
[[1970年]]に反[[安保闘争]]で上京し、闘争後そのまま東京で[[新左翼]]としての思想活動を始める。21歳になった[[1971年]]に「独学・独断・独行」の「戦後最年少のイデオローグ」(『[[読書人(新聞)|読書人]]』)<ref>『読書人』[[1972年]]4月16日発行、第973号</ref>として[[松田政男]]編集の『[[映画批評]]』に映画評論を連載し、『[[情況出版|情況]]』『[[現代の眼]]』『[[構造(雑誌)|構造]]』『[[青土社|現代思想]]』などでアナキズム論やバクーニン論などの政治思想から文学、芸術について思想を展開。[[マルクス主義]]については批判の論陣を展開したが、[[廣松渉]]の[[物象化]]論には深い関心を持った。<ref>千坂恭二「物象化論とシュティルナー──唯一者と唯物史観の相克と異相」(『情況』1975年4月号)</ref>