「バタヴィア」の版間の差分

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以後、バタヴィアはオランダ植民地時代を通じてこの名称で呼ばれた。[[朱印船]]時代の[[日本人]]は現地式に「ジャガタラ(咬𠺕吧)」と呼んでいる。
 
17世紀末頃のバタウィアは、優に80年の歴史を刻み落ち着いた町になっていた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備えた政庁があり、[[チャイナタウン]]やたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さな[[テラスハウス]]が無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、オランダが日本と中国の間で[[中継貿易]]をしていたからである。また、高温多湿の町でもあった。ここへ移住してくるオランダ人はさほど満足していなかった。[[マラリア]]、[[コレラ]]、[[デング熱]]などの熱帯病に倒れることが多かった。<ref>サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳『タラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 157ページ</ref>。
 
旧バタヴィアは、[[ヤン・ピーテルスゾーン・クーン]]によって創られた。18世紀には疫病が蔓延するヨーロッパ系住民の「墓場」として、東洋中に悪名を届かせていた<ref name="saimon">サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳『タラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 163ページ</ref>。