「ピーター・ウィレム・ボータ」の版間の差分

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[[1948年]]、国民党から国会議員に立候補し当選する(地盤は[[ケープ州]]東部)。この選挙で国民党を中心とするマラン四党連立政権は、アパルトヘイト政策を本格的に推進することとなる。[[1958年]]に発足した[[ヘンドリック・フルウールト]]政権では副内相に就任。[[1966年]]、[[バルタザール・フォルスター]]内閣で国防相に就任する。[[1972年]]には主要閣僚や警察庁長官らから成る「国家安全保障評議会」を設置。同組織を通じ政治的影響力を強化すると同時に[[イスラエル]]との協力関係を通じ、核開発に踏み切ったのも同時期だとされる。[[1978年]]9月、フォルスターが辞任し、議会によって後継首相に選出された。ボータは保守派ではあったが、前任のフォルスター以上に政治家としてはプラグマティストであった。ボータは南アにおける白人政権を維持を図る一方で非白人以外の人種に対する自治権を考慮に入れた一種の連邦制に南アを再編する構想を持っていた。
 
[[1984年]]、[[立法]]・[[行政]]の両権を[[白人]](定数:178人、内任命議席が12)、[[カラード]](定数:85人)、[[インド]](定数:45人)系国民に分与し白人単独の支配体制から「三人種体制」に移行、憲法改正により首相職を廃止し大統領の権限を強化する。[[1985年]]にはアパルトヘイト政策を成す、[[雑婚禁止法]]、[[背徳法]]の廃止に踏み切るものの、同政策の基幹3法([[原住民土地法]]、[[集団地域法]]等)の撤廃に関しては断固拒否した。[[1987年]]の総選挙では123議席を獲得し(任命議席を併せ133)支配体制を強化した。
 
[[1986年]]、南ア全土に黒人暴動が拡大すると非常事態を宣言するとともに、[[ネルソン・マンデラ]]を釈放しようとした。しかし、これは国際社会及び国内世論の非難回避をねらったものであり、徹頭徹尾、黒人解放運動に対しては対決的であり、弾圧政策を推進した。このことが次第に政権内の穏健派から反発される。一方で、ボータの実利論的な政策は、国民党内の強硬派からは「'''日和見的'''」と批判を受け、ボータを良しとしない[[アンドリース・トリューニヒト]]ら国民党内の強硬派は[[1992年]]に[[保守党 (南アフリカ)|保守党]]を結成することになる。