「ベルリンの戦い」の版間の差分

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1945年4月16日、赤軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。作戦は午前5時、オーダー川から[[ゲオルギー・ジューコフ]][[元帥]]率いる第1白ロシア方面軍の30分間にわたる猛砲撃で開始、続いてドイツ軍守備兵の目を晦ませるため140の[[サーチライト]]を照射し、渡河攻撃が行われた<ref>作戦の詳細は、ゲ・カ・ジューコフ『ジューコフ元帥回想録 革命★大戦★平和』清川勇吉・相場正三久・大沢正 共訳、[[朝日新聞社]]、pp.497-512を参照。</ref>。しかし、この照射はドイツ軍の目を晦ますどころか、逆にドイツ軍砲兵のために赤軍を照らし出す結果となった。又、[[ヴァイクセル軍集団]]の司令官[[ゴットハルト・ハインリツィ]][[上級大将]]の命令により、前日、第1線陣地から第2線陣地にドイツ軍守備隊は後退していたため、猛砲撃の効果も無かった。このためオーデル河を渡河した赤軍は[[ゼーロウ高地]]で[[テオドーア・ブッセ]][[大将]]率いる[[第9軍 (ドイツ軍)|ドイツ第9軍]]の頑強な抵抗に遭い、攻撃は頓挫した<ref>[[コーネリアス・ライアン]]『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<[[ハヤカワ文庫]]>、pp.92-95,p.104。</ref>。一方、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ方面軍も午前6時、[[ナイセ川|ナイセ河]]から攻撃を開始し、砲撃と[[煙幕]]の援護を受け渡河を行った。午前8時35分、133ヶ所の渡河点を確保したコーネフは{{仮リンク|第3親衛戦車軍 (ソ連)|label=第3親衛戦車軍|en|3rd Guards Tank Army (Soviet Union)}}に命令を送り、南方からベルリンに侵攻する準備を指示した<ref>コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、p.95-100。</ref>。
 
[[4月17日]]、ジューコフはゼーロウ高地のドイツ軍防衛陣地を破り、18日早朝までに同高地を占領し、{{仮リンク|ミュンヒェベルク|de|Müncheberg}}へ向け{{仮リンク|第8親衛軍 (ソ連)|label=第8親衛軍|en|8th Guards Army (Soviet Union)}}と{{仮リンク|第1親衛戦車軍 (ソ連)|label=第1親衛戦車軍|en|1st Guards Tank Army (Soviet Union)}}を進めた。しかし、[[ドイツ空軍]]の支援を受けた{{仮リンク|ミュンヒェベルク装甲師団|de|Panzer-Division Müncheberg}}<ref group="注釈">1945年[[3月5日]]に編成が発令された、クンマースドルフ戦車大隊1個からなる装甲師団。同師団は、1945年初頭、編成途中のままヴァイクセル軍集団に編入、ゼーロウ高地で戦い、その後[[ベルリン市街戦]]に加わる。師団の最後の車輌は[[5月1日]]に撃破され、翌日赤軍に降伏した(マクシム・コロミーエツ『1945年のドイツ国防軍戦車部隊』、小松徳仁 訳・高橋慶史 監修、大日本絵画、pp.78-79)。</ref>が、これ等の赤軍を叩き、大損害を与えた。だが、19日にはドイツ第9軍の戦線は突破され、第CI軍団は北へ、{{仮リンク|第LVI装甲軍団|en|LVI Panzer Corps}}はベルリンに、SS第IX装甲軍団とSS第V山岳軍団、[[フランクフルト・アン・デア・オーダー]]守備隊はブッセ直接指揮のもと、南へ後退した<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.53。</ref>。
 
== ベルリンからの脱出 ==
 
=== 日本の要請 ===
[[4月15日]]、ドイツの崩壊を見越し[[東京]]の[[海軍軍令部]]はベルリン脱出寸前の[[阿部勝雄]]中将宛に緊急電報を発信し、「残存する[[Uボート]]をできるだけ多く[[日本]]に回航するよう[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]に要請し、その実現に努力せよ」との指令を行った。この要請に海軍総司令官[[カール・デーニッツ|デーニッツ]]元帥は、燃料不足を理由に拒絶の意を示した。しかし、指令を果たすために、阿部はその後、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]][[外務大臣|外相]]と折衝を行い再度交渉を行ったが、デーニッツからは要望には応じられない旨、[[4月20日]]に最終的な回答を受けた。その日、阿部は総統官邸に赴き、ヒトラーの誕生を祝う記帳を行った後、デーニッツからの最終回答とベルリンから脱出する旨打電し、ベルリン包囲網が閉じる寸前に、[[ハンブルク]]方面へ脱出した<ref>吉村昭『深海の使者』、文藝春秋<文春文庫>、pp.332-337。</ref>。
 
== ベルリンの包囲 ==
4月20日、コーネフはさしたる抵抗を受けることも無く、{{仮リンク|[[ルート/マルク|label=ルート|de|Baruth/Mark}}]]を陥落させ、ドイツ[[陸軍総司令部]]のある{{仮リンク|ツォッセン|de|Zossen}}に達しようとしていた。一方ジューコフは、ドイツ第LVI装甲軍団の抵抗もあり思うように進撃できていなかったが、21日には第1機械化軍団がベルリン郊外の{{仮リンク|ベルリン=ヴァイセンゼー|label=ヴァイセンゼー|de|Berlin-Weißensee}}に突入し、ベルリン中心部へ向け重砲による砲撃を始めた。翌22日、第3親衛戦車軍と[[第4親衛戦車軍]]が{{仮リンク|テルトウ運河|de|Teltowkanal}}に到達し、23日にはベルリン郊外市街地へ突入を始める<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、pp.40-48,p.55。</ref>。
 
翌24日、第LVI装甲軍団の司令官ヘルムート・ヴァイトリング大将が急遽ベルリン防衛軍司令官に任ぜられ<ref>コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.209-217。</ref><ref group="注釈">ヴァイトリングがベルリン防衛軍司令官の任命されたのは24日であったが、前日の4月23日よりベルリン東地区と南東地区の指揮を担当していた(H・エーベルレ『ヒトラー・コード』高木玲 訳、講談社、2006年、ISBN 4-06-213266-4、p.396)。また、高橋慶史によれば25日となっている(高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』p.309)。</ref>、率いる残余部隊をベルリン市街の各所に配置した。政府機関に近い{{仮リンク|ベルリン・アンハルター駅|label=アンハルト駅|de|Berlin Anhalter Bahnhof}}付近に[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント]]、[[総統官邸]]付近はヴィルヘルム・モーンケSS少将が率いる[[武装親衛隊]]、{{仮リンク|ベルリン=ヴィルマースドルフ|label=ヴィルマースドルフ|de|Berlin-Wilmersdorf}}付近にはミュンヒェベルク装甲師団、{{仮リンク|ベルリン=ヴァンゼー|label=ヴァンゼー|de|Berlin-Wannsee}}、[[ポツダム]]、{{仮リンク|ベルリン=グルーネヴァルト|label=グルーネヴァルト|de|Berlin-Grunewald}}、{{仮リンク|ベルリン=ハーレンゼー|label=ハーレンゼー|de|Berlin-Halensee}}方面には第20装甲擲弾兵師団、[[フリードリヒ通り駅]]付近に[[第9降下猟兵師団]]が配置、第18装甲擲弾兵師団が予備とされた。しかし、どの師団も定数を下回る寄せ集めであり、50万人近い赤軍の前に包囲網は狭まっていった。
 
4月25日、コーネフの第4親衛戦車軍はポツダム郊外へ達し、ベルリンは包囲された<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.55,p.56。</ref>。
== ベルリン市街戦 ==
{{Main|ベルリン市街戦}}
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1985-092-29, vor Berlin, Volkssturm mit Panzerabwehrwaffe.jpg|thumb|ベルリンで[[パンツァーシュレック]]を構えるドイツ軍歩兵[[国民突撃隊]]員]]
 
4月初頭のベルリンでは赤軍がいつ攻め込んでくるか解らぬ状況で、市内は熱病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。ナチス党員は降伏すれば[[即決裁判]]で処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くのソビエト軍将兵を道連れにする事を考えていた。ヒトラーは助かる道は完全に閉ざされていたため、ドイツの人種、文化、建造物まで全てを道連れにする覚悟を決めていた<ref>アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、p.275。</ref>。
当時、ベルリンには新兵器技術を研修・習得するために多くの民間人技術者や技術将校が所属する陸軍武官事務所や海軍武官事務所があった。[[大倉商事]]、[[三菱商事]]の商社関係者、芸術家、留学生などおよそ400名の日本人が在住していた。民間人の多くはベルリン郊外に避難した。ベルリンの南西80km のマールスドルフにある城に120名の日本人が篭城した。このような避難所は他にも数ヵ所あった。
 
4月13日、ドイツの航空機体調査を担当している海軍武官事務所の[[永盛義夫]]技術中佐、[[樽谷由吉]]技術大尉は車でベルリンを離れ、[[ペーネミュンデ]]南方の[[ロストック]]にある[[ハインケル]]社の工場で、ジェット機の技術資料を入手し、4月末まで同地に留まった後、[[中立国]][[スウェーデン]]へ脱出した。翌4月14日、駐独日本大使の[[大島浩]]以下外務省関係者と大使館付武官も、自動車11台に分乗し、ベルリンを離れ、[[バート・ガスタイン]](現[[オーストリア]])へ避難した<ref>吉村昭『深海の使者』、文藝春秋<文春文庫>、pp.330-331。</ref>。
 
== 脚注 ==