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福岡藩士族の中にも、九州の他藩同様反政府の動きがあったが、[[1874年]]の[[佐賀の乱]]、[[1876年]]の[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]、[[萩の乱]]の何れにも同調せず、あくまでも[[西郷隆盛]]の決起を待ち続けた。そして、明治10年[[3月27日]]、西郷軍の[[熊本城]]包囲を知った元福岡藩士の[[武部小四郎]]、[[越智彦四郎]]、[[加藤堅武]]らは、慎重論を唱える[[山中立木]](後の[[福岡市]]初代市長)の説得を振り切り、500余名を持って決起した。一方の政府側はこの反乱を事前に察知しており、既に50数名を逮捕していたが、反乱を抑えることはできなかった。
 
3月19日、野間の穴観音にてひそかに蜂起の謀略を交わし<ref>[http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/item_id:101004 福岡市の文化財 寺塚穴観音古墳]</ref>、熊本城包囲後の28日午前1時西陣町の[[紅葉八幡宮]]に集合。午前4時、越智は[[福岡城]]におかれた[[鎮台]]兵を、[[久光忍太郎]]は七隈の第14大隊屯所を、[[村上彦十]]は西陣町役場の金庫および同志の多数拘留された藤崎の監獄をそれぞれ目指し、出発した。
 
当時、福岡城には[[歩兵第14連隊]]の第3大隊が分遣しており、西南戦争勃発後も第2・第4中隊以外は残存していた。しかし大隊長[[吉松速之助]]少佐の戦死をはじめとした戦局の悪化に伴い、それら後備部隊も追及され、最終的に城内にはわずか1小隊を残すのみとなっていた。部隊は警官隊、輜重隊、海軍[[軍楽隊]]をも動員し、襲撃に持ちこたえた。賊軍は村上らの隊によって解放した受刑者80名を隊列に加えたが、攻勢に転じた官軍に圧倒され、大休山(現在の[[南公園 (福岡市)|南公園]])まで撤退。さらに歩兵第7連隊第2大隊の後備兵1個中隊も加わり、午後1時までには大休山はほぼ占領された。敗残兵は甘木まで逃れたが、4月1日にはさらに撃破され多数が戦死。西郷軍に一部が合流したが、大半の者が捕えられた。
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== 著名な参戦者 ==
*[[平岡浩太郎]] - [[政治団体]][[玄洋社]]初代社長。西南戦争にも加わった。([[頭山満]]と[[箱田六輔]]らは前年の萩の乱に呼応しようとして逮捕され山口で服役していたため不参加。)
*[[寺田栄]] - [[鳩山一郎]]の[[岳父]]。
*[[来島恒喜]] - [[大隈重信]]に対する爆弾テロの犯人。