「慶長出羽合戦」の版間の差分

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花村碧 (会話 | 投稿記録)
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この撤退戦は後世まで語り草になった。最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も兼続が[[駿府]]を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」とおおいに賞賛したという。
 
また、最上勢は全戦線で反攻に転じ、10月1日には寒河江・白岩・左沢を回復すると、撤退から取り残された谷地城に籠る[[下秀久]]も11日間の籠城のすえ降伏。その後下秀久を先手、嫡男義康を総大将として庄内地方に進攻すると[[高舘山|尾浦城]]を攻め落とした。翌慶長6年([[1601年]])3月酒田東禅寺城を攻略し十五里ヶ原の戦い及び奥州仕置で失った庄内地方全域を上杉氏から奪還した。
 
<gallery widths="450px" heights="200px" caption="『長谷堂合戦図屏風』 江戸時代中期 戸部正直画">