「先入観」の版間の差分

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'''先入観''' (せんにゅうかん) は、対象[[認識]]において、誤った認識や妥当性に欠ける[[評価]]・[[判断]]などの原因となる[[知識]]、または把握の枠組みを言う。人間は、通常、直接に対象に出会う以前に、他者の言葉とか、メディアの風説、書物などから得た、不十分な知識や、そこから導かれる対象に対する態度・把握の様式を持っているもので、その結果として、ネガティブな認識や対象に対する評価がもたらされるようなものを特に「先入観」という。
'''先入観'''(せんにゅうかん)とは、ある事物に対し、あらかじめ得た[[知識]]を元に、偏った判断をすることを指す。
 
== 人間の認識の主観性 ==
例えば、ある人物が、盗癖があるとの情報を得ていたならば、その人物と初対面したとき、相手を[[窃盗]]犯と認識し、事実関係を確認しないまま、相手を拒絶することがある。これが先入観である。
 
人間の認識や認識に基づく行為はすべて、何らかの意味で、直接の対象認識の前に、予備的な知識や、認識・把握の枠組みが存在するものである。哲学的には、[[客観]]である「[[物自体|もの自体]]」は認識できず、[[主観]]の「認識形式」というフィルターを常に通じて、人間の対象認識や、世界に対する行為は成立している。
 
しかし、このような主観認識のフィルターは、人間が世界を認識するにおいて、また他者と[[社会]][[生活]]を送り、[[コミュニケーション]]を通じるにおいて、むしろ必要なものである。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と一般に噂されている人と、何か交渉する必要ができた場合など、この「予めの知識」に基づいて、慎重な言動を取ることで、対人接触がうまく進むということもある。
 
== 有用性とネガティブな面 ==
 
なにごとか未知のものに対し、予めに知識や評価の枠組みがあるのは、一般的には、生きて行く上で有用である。しかし、予めの知識や評価の枠組みなどが、著しく客観性に欠けるもので、実際のありようと懸け離れている場合は、問題が起こることがあり、このような事前の知識や評価の枠組みは、「[[偏見]]」とも称される。
 
先入観は必ずしも偏見とは限らないが、事前に間接的な予備知識や評価を持っていることで、現実のありようについて、間違った認識や、妥当性に欠ける評価・把握をもたらすことがある。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と噂されている人と、実際に会い、一緒に仕事をしてみると、外見がやくざぽいので、「腕力をふるうような」感じがするだけで、実際は、腕力などふるうことはなく、またいかにも、話しかけにくい雰囲気であるが、実際には、寡黙なだけで、十分話し合いが可能であるということが分かったりすることがある。
 
== ベーコンのイドラとしての先入観 ==
 
[[フランシス・ベーコン]]は『ノーヴム・オルガヌム』のなかで、人間の「正しい認識」を曇らせ遮る、四種類の先入観を指摘した。これらは四つあり、[[イドラ]]と呼ばれる。それぞれは:
* 種族のイドラ
* 洞窟のイドラ
* 市場のイドラ
* 劇場のイドラ
以上のように呼ばれている。
 
== 関連項目 ==
 
* [[偏見]]
* [[主観]]と[[客観]]
* [[認識]]と[[コミュニケーション]]
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/reimei.html 近代哲学の始まり]
 
[[Category:哲学|せんにゆうかん]]
[[Category:知識|せんにゆうかん]]
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