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'''日興'''(にっこう、[[寛元]]4年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]([[1246年]][[3月26日]]) - [[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]([[1333年]][[2月21日]]))は、[[鎌倉時代]]の[[僧侶]]。[[日蓮]]の高弟[[六老僧]]の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。[[富士門流|日興門流]]の祖{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | pp = 650,651,747 | ps = -但し、宗祖より白蓮阿闍梨の名を賜ったこと(p.650)、没年月日と日興門流(富士門流)の祖であること(p.651)、六老僧であること(p.747)、のみ。 }}。[[大石寺|富士大石寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]にして、[[日蓮正宗]]第二祖に列せられる {{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | pp = 179,183,187 | ps = -但し、生年月日と日蓮正宗第二祖であること(p.179)、大石寺創建であること(p.183)、没年月日(p.187)のみ。}}。
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[[ファイル:Sepoishi.jpg|サムネイル|(大石寺石の坊境内)大石寺開創までの間この上に日興は座って説法したと云われる{{誰2|date=2015年9月}}]]-->
== 略歴 ==
{{年譜のみの経歴|date=2015年9月30日 (水) 23:14 (UTC)}}
* [[寛元]]4年([[1246年]])3月8日、[[甲斐国]]大井庄鰍沢([[山梨県]][[富士川町]]鰍沢)で誕生。
* [[正嘉]]2年([[1258年]])、富士岩本の[[実相寺 (富士市)|実相寺]]へ入室。名を伯耆房と賜わる。2月、[[日蓮]]が『[[立正安国論]]』の執筆に際し[[大蔵経]]を閲覧するため岩本の実相寺へ入った折、弟子となった。
* [[弘長]]元年([[1261年]])5月12日、日蓮が[[伊豆国|伊豆]]に配流(伊豆流罪)され、日蓮正宗の文献『日興上人詳伝』によると、日興が同行して常随給仕をしたとされる<!--{{要出典範囲|([[日蓮宗]]では否定)|date=2015年9月}}-->。また伊豆[[伊東市|宇佐美]]・吉田の地を弘教した。
* 弘長2年([[1262年]])、熱海真言僧金剛院行満が、日興の[[折伏]]により改衣して日行と名乗り、自坊を大乗寺と号した(日興上人詳伝)。
* [[文永]]8年([[1271年]])10月10日、日蓮が相模依智本間邸を発し[[佐渡島|佐渡]]に向かった際(佐渡流罪)、日興が同行して常随給仕をしたとされる(日興上人詳伝)。
* 建治2年([[1276年]])4月8日、日目、伊豆走湯山円蔵坊において日興により得度。
* [[弘安]]2年([[1279年]])1月、興津時業、日興書写の法華経一部を請く。9月20日、日蓮、書を日興に与える。10月12日、日蓮、書を日興のほか、日秀・日弁等に報じ滝泉寺申状草案を与う。10月15日、日興等、鎌倉より日蓮に法難の状を急報する。10月17日、日蓮、書を日興はじめ日秀・日弁等に報ず。『三大秘法口決』を記す。日興に文永11年(1274年)12月の本尊〔万年救護本尊〕を与える。
* 弘安3年([[1280年]])<!--1月11日、日蓮より法華本門宗血脈相承『百六箇抄』<ref group="注釈" name="h" />を相伝す{{要出典|date=2015年9月}}。-->2)2月、日興、遠江の新池家に在り。
* 弘安4年([[1281年]])、日興、園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕。
* 弘安5年([[1282年]])9月、日蓮は『日蓮一期弘法付嘱書』(身延相承)をもって日興を本門弘通の大導師と定め、10月13日、『身延山付嘱書』(池上相承)をもって身延山[[久遠寺]]の別当職(貫主)と定めて死去した、と日蓮正宗では主張している{{Sfn | 富士学林研究科 | 2006 | pp =5,7-8,12 | ps = -但し、前書をもって「滅後の大導師〔と定めた〕」とある。}}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 181 | ps = -但し、両書の別名が身延相承・池上相承あることを除く。}}。その一方で、[[日蓮宗]]は、両書を宗祖滅後150年頃成立の偽書と位置付けて{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185 }}{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 294 }}同主張を是としておらず<ref group="注釈">{{Harv | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 1315 }}に、身延山の開山は宗祖、2世は日向とある。</ref>、日興身延在山時代には、「日興は自身を院主、日向を学頭に当て〔た〕長老合議制」が敷かれていた、としている{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 650 }}。日蓮正宗では、両書をあわせて『[[二箇相承|二箇相承書]]』としている{{Sfn | 日蓮正宗宗務院 | 1999 | p = 230 }}。
* 弘安10年([[1287年]])10月13日、初めて大曼荼羅本尊を書写([[宮城県]][[登米市]]・[[上行寺 (登米市)|上行寺]]所蔵)。
: その後、日向や、身延の地頭・[[波木井実長]]との意見の相違から、日興は身延山を降りた ([[#身延離山|身延離山]])。
== 著書 ==
* 『[[御義口伝]](口述)』<ref group="注釈">{{Harv | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 37 }}には、本書は「多くの先師〔前の時代の同門僧侶〕によって、〔日蓮〕聖人の重要な奥義書として依用されてきた。〔略〕ところが近年〔略〕偽撰と断定された。偽撰説はほぼ定着した観があるが、一部の日蓮系教団では真撰として取扱っている」とある。</ref>
* 『[[百六箇抄]](口述)』<ref group="注釈" name="h">{{Harv | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 323 }}には、本書は『百六箇相承』と称し、「日興門流において日蓮聖人に仮託して秘書として製作されたものである」とある。</ref>
* 『宗祖御遷化記録』
* 『弟子分本尊目録』
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