「天竜三郎」の版間の差分

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入門当初はあまりの不器用さと非力から稽古でも苦戦していたが、身体が柔軟なことと長身を生かした[[突っ張り]]から、右四つで吊りながら土俵際まで寄る取り口に変わったことで強引ながら強みを増した[[上手投げ]]も武器とした。幕下までは習字の上手さを見込まれて[[常ノ花寛市]]の[[付き人]]とされたが、横綱からの手紙書きに追われて稽古が出来ずに幕下で低迷して以降は、出羽ノ海の付き人に変わってから猛稽古で遅れを取り戻した。さらに、[[1922年]]に常陸山が亡くなってからは6代目出羽海<ref>常陸山の没後、両國は、常陸山に敬意を表して「ノ」を外して「出羽海」とした。</ref>を継承した元小結[[両國梶之助 (國岩)|両國]]の付き人を務めた。長く付き人を務めていたことで稽古不足から出世が一時的に遅れたが、色白の美貌も観客の人気を呼んで順調に出世し、[[1927年]]5月場所で新十両昇進、[[1928年]]5月場所で[[新入幕]]を果たした。
 
[[1930年]]3月場所では10勝1敗で常ノ花寛市と並んだが、当時は[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]が存在しなかったことや、常ノ花寛市と天竜が同部屋だったことで本割での対戦が無かったこと、さらに同点の場合には[[番付上位者優勝制度|番付上位の力士が優勝となる制度]]の存在などの不運が重なり、幕内最高優勝は常ノ花寛市となった。この場所で前頭筆頭だった天竜は、場所後に小結を通り越して[[関脇]]へ昇進した。
 
関脇に昇進した天竜は、次の[[大関]]を掛けて同部屋・6歳年下の[[武藏山武]]と激しく昇進を争った。[[1931年]]の[[満州]]巡業では最終日に組まれた両者の対戦が[[水入り]]の大一番となり、その決着のために巡業の予定を一日延長したほどだった。のちに「[[松翁 (行司)|松翁]]」となる[[木村庄之助 (20代)|20代木村庄之助]]も、自身が裁いた取組で最も記憶に残る一番に挙げたという逸話が残っている。結局、[[大関]]昇進争いは後輩の武藏山に軍配が上がった。さらに、

[[1931年]]5月場所8日目の[[能代潟錦作]]戦では勝負が決着せず<ref>それまでの13尺土俵から現在のような15尺土俵に広げられた場所であり、天竜はのちに「土俵が狭かったらもっと早く決着していた」と語っている。</ref>、双方の希望によって10日目番外の取組を設けて再戦[[吊り出し]]で天竜勝利したの再戦もまた水入りになる大相撲で、その影響もあってか、本来の割では天竜は[[玉錦三右エ門|玉錦]]に、能代潟は武蔵山にそれぞれ敗れたが、打ち出し後に日本相撲協会から敢闘精神を讃える特別表彰を二人で受けた。
 
=== 春秋園事件 ===