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== 歴史 ==
{{正確性|date=2014年3月|section=1}}
[[減反政策|米あまりの時代]]以前は、[[白米]]だけの飯は[[都市部]]以外では[[祝祭]]時のみ炊かれるもので、[[東京]]を例にとると[[東京都区部]]のうち[[山の手]]と[[下町]]ではふだん普段でも白米飯を食べていたが、その外側の[[畑]]作地帯では、[[陸稲]]米が2割から3割の麦飯を食べていた<ref name="shi" />。現在は住宅地になっている[[杉並区]]では[[大正時代]]から少しずつ蔬菜の栽培が増加し、都市近郊の野菜栽培農家に転換したが、それ以前は[[ヒエ|稗]]などの穀物を栽培し、日常食は稗と麦で、米は少し入れるだけだった<ref>増田 昭子 『雑穀の社会史』 吉川弘文館、2001年、ISBN 4-642-07545-3 、46、79頁</ref>。日本では米に対する思い入れは強く、[[日本人]]の[[主食]]は米と考えられてきたが、実際の日常食は麦飯の他、[[かて飯]]といって米に他の[[穀物]]や[[野菜]]、[[海草]]などを加えて共に炊飯したもの、あるいは粟、稗など米以外の穀物のみを炊飯したものが普通だった<ref name="shi">新谷 尚紀 他 『民俗小事典 食』 吉川弘文館、2013年、ISBN 978-4-642-08087-3 、26-28頁</ref>。麦飯は米あまりの時代以前の日常の一般的な食べ物のひとつだが、今日では[[健康食品]]、あるいは[[麦とろご飯]]、[[牛タン|牛タン定食]]、[[水軍鍋]]など特に麦飯と相性のよい食味を持つ献立に添えて好んで食べられるように変化した。健康食品として食べられるのは、大麦は米と比べて[[食物繊維]]、[[タンパク質]]、[[ビタミン]]を多く含むためである。
 
大麦は米に比べて煮えにくい。大正期に<ref>阿波学会紀要 第49号等には押し麦が現れたのは大正時代末、普及したのは戦前から戦後にかけてという</ref>蒸気をかけながら押しつぶし、火が通りやすく加工された「押し麦」が開発されるまでは、大まかに砕いた「挽き割り麦」か、「えまし麦」といわれるものを米に混ぜ込んで炊いた。これは数日分の精白大麦、すなわち丸麦を一度煮て、茹で汁とともにまま冷ましたもので、火が通って割れた麦粒を笑顔にたとえ「笑まし」と呼ぶ。使うときは茹で汁から引き揚げて洗い、研いだ米とともに炊く。麦の茹で汁は、[[洗濯糊]]として使われた。