「江梨鈴木氏」の版間の差分

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[[小田原衆所領役帳]]によると、[[鈴木繁朝]]が河越衆として江梨村に100貫文の所領を与えられていた。また、繁朝の三男・[[鈴木繁定]]は[[北条氏政]]から不審船の取り押さえ、他国船の改めなど[[駿河湾]]沿岸警備について頻々と司令を受けていたことが江梨鈴木家文書に残っており、その後も後北条氏の重臣として江梨城(鈴木氏館)を本拠に続いた。
 
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]が後北条氏を攻めた[[小田原征伐]]で、江梨鈴木氏は後北条氏に従って戦ったが敗退。その後、後北条氏が滅ぶと江梨鈴木氏は北条氏と運命を共にした。鈴木繁朝の長男である繁光の子・鈴木繁脩の弟である[[鈴木繁氏]]は[[陸奥国]][[糠部郡]]葛巻村小屋瀬(現・[[岩手県]][[岩手郡]][[葛巻町]]小屋瀬)に落ち着き、'''[[小屋瀬鈴木家]]'''の祖となった<ref>葛巻町誌編纂委員会『葛巻町誌〈一巻〉』1987年。</ref>。
 
静岡県沼津市西浦江梨には、江梨鈴木氏歴代の居館跡・[[鈴木氏館]]がある。