「ギゼルベルト (ロートリンゲン公)」の版間の差分

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'''ロートリンゲン公ギゼルベルト'''(Giselbert von Lothringen, [[890年]]頃 - [[939年]][[10月2日]])は、[[ロートリンゲン大公]](在位:[[925年|925]]/[[928年]] - [[939年]])。ロートリンゲン貴族[[レニエ家]]のレニエ1世の子。
 
[[911年]]に東フランク王[[ルートヴィヒ4世 (東フランク王)|ルートヴィヒ4世]]が死去した後、[[ロタリンギア|ロートリンゲン]]では東西フランク両派に分かれ対立が起こり、父レニエ1世は親西フランク派リーダーとして東フランク派と戦った。その結果、西フランク派が勝利し、ロートリンゲンは西フランク王[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世]]のものとなった。[[920年]]に、レニエ1世の跡を継いだギゼルベルトはシャルル3世より独立し、ロートリンゲン王を称した。しかし、ギゼルベルトはシャルル3世に敗北し、東フランク王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]のもとに逃げ込んだ。東西フランク王は[[921年]]11月のボン条約において互いの領土を確認し休戦を約したが、その後西フランク王シャルル3世はパリ伯[[ロベール1世 (西フランク王)|ロベール]]と対立、[[923年]]にはロベールの娘婿ブルゴーニュ公[[ラウール (西フランク王)|ラウール]]により廃位された。ギゼルベルトは当初は西フランク王となったラウールを支持していたものの、ラウールからの圧力を受けて、再び東フランク王ハインリヒ1世のもとへ走った。ハインリヒ1世は925年(または928年)に正式にギゼルベルトをロートリンゲン大公とし、[[928年]]には自らの娘ゲルベルガをギゼルベルトと結婚させた。これにより、ロートリンゲンは東フランク王国(ドイツ王国)の領土となることが確定した。934年にはハインリヒ1世によりフランケン大公[[エーバーハルト (フランケン公)|エーバーハルト]]や司教らとともに西フランク王ラウールのもとに派遣されている<ref>Leyser, p.13.</ref>。
 
[[936年]]のハインリヒ1世の死後、[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が東フランク王位を継いだが、[[938年]]にはオットー1世の弟[[ハインリヒ1世 (バイエルン公)|ハインリヒ]]が反乱を起こし、ギゼルベルトはフランケン大公[[エーバーハルト (フランケン公)|エーバーハルト]]とともにハインリヒ側に加わり、西フランク王[[ルイ4世 (西フランク王)|ルイ4世]]に援助を求めた。939年10月2日、ギゼルベルトらがアンデルナハの[[ライン川|ライン河畔]]で宴会を開いているところを、オットー1世は急襲し、ギゼルベルトは溺死した<ref>瀬原、p.77</ref>。ロートリンゲン大公位は、同年のうちにオットー1世に降伏したオットーの弟ハインリヒが得ることとなった。
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* [[成瀬治]] 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 [[山川出版社]]、1997年
 
{{先代次代|[[ロレーヌ公|ロートリンゲン公]]|925/928年 - 939年|[[ゲープハルト (ロートリンゲン公)|ゲープハルト]]|[[ハインリヒ1世 (バイエルン公)|ハインリヒ1世]]}}
 
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