「北島忠治」の版間の差分

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喧嘩癖はなおらず、一時は「坂の忠治」との異名をとった。[[1921年]]旧制明治大学[[大学専門部 (旧制)|専門部]]入学。
 
1929年、明治大学法学部卒業。卒業と同時に監督就任。元は[[相撲]]部出身で、[[神楽坂]]の[[筑土八幡神社]]でよく練習をしていた。ラグビーの経験はそれまでなく、大学2年生の時にメンバーが足りないとの理由で助っ人を頼まれたことがきっかけで、相撲部からラグビー部に転部。
 
[[1926年]] - [[1928年]]まで明治大学のスクラムセンター(今の[[フッカー]])として活躍。1928年12月8日に神宮競技場で行われた伝統の[[早明戦]]には明治大学の主将として出場している

1929年、明治大学法学部卒業。卒業と同時に監督就任。[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早大ラグビー部]]を率いた[[大西鐡之祐]]とは全く対照的なラグビー理論を掲げていたため比較し続けられた。
 
明治OB達は皆、口を揃えて「厳しくも温かい人柄」であったと伝えている。また監督が幅をきかせていた他の大学と違い、グラウンド上では大抵学生の判断に任せていたが、手抜きは許さなかった。また見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。北島がラグビーを通じて目指したものは人格陶冶、社会に恥じない人間を育てることであった。