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'''金 方慶'''(きん ほうけい、キム・バンギョン、生没[[1212不詳]] - [[1300年]])は、[[高麗]]王朝の将軍、都督使。[[字]]は本、[[諱]]は忠烈。安東([[慶尚北道]])の出身。
 
[[元 (王朝)|元]]側に通じた高麗の武将であり、[[元寇]]時の高麗軍の指揮者である<ref>http://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E6%96%B9%E6%85%B6<参考文献>山口修『蒙古襲来』、旗田巍『元寇』</ref>。
 
== 来歴 ==
[[本貫]]は[[安東金氏]](旧安東金氏)。[[新羅]][[敬順王]]の子孫である。父は兵部尚書、翰林学士の金孝印。祖父の金敏成に養育された。[[1229年]][[蔭位]]により出仕する。[[1248年]]の[[モンゴルの高麗侵攻]](第四次侵攻)では西北面兵馬判官であった。[[1263年]]に知御史台事、以後は上将軍、西北面兵馬使に昇格し、一次左遷されかかったが刑部尚書、枢密院副使となった。
 
=== 三別抄討伐 ===
金方慶は、[[元宗 (高麗王)|元宗]]の時代から将軍として仕えて活躍し、[[1271年]]からは[[モンゴル帝国|モンゴル]]より、[[洪茶丘]]と共に[[三別抄]](元の支配に抵抗する高麗の武装集団)の追討使を命じられ、[[珍島]]([[全羅南道]])、[[耽羅]]([[済州島]])を攻略し、軍功を挙げた。
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=== 失脚と復権 ===
高麗軍の韋得儒、盧進義、金福大は日本侵攻での不手際で譴責され、金方慶に含むところがあった。[[1277年]]、忻都との会見から帰還した金方慶を諸将が出迎えたが、盧進義が機嫌を取ろうとしてか酒を注ごうとするも、金方慶腹心の韓希愈が「こんな奴の酒など飲むべきでない」と割って入り、金方慶も無視して席を立った。韋得儒は韓希愈にとりなしの依頼をしたが侮辱され、殴り合いの喧嘩となった。
[[1277年]]、金方慶は[[洪茶丘]]の讒言により、謀反と横領の罪でクビライに捕らえられる。金方慶は針金を首に結ばれて引き回され、鞭打ちに処された後、大青島([[忠清南道]])に島流しにされた。しかし、クビライに対して[[忠烈王]]が懸命に金方慶の無罪を主張したため、許されて帰還を果たす。
[[1277年]]ここで韋得儒らは忻都に虚偽の告発をし金方慶は[[洪茶丘]]もその讒言により乗って、謀反と横領の罪でクビライに捕らえられる。金方慶は針金を首に結ばれて引き回され、鞭打ちに処された後、大青島([[忠清南道]])に島流しにされた。しかし、クビライに対して[[忠烈王]]が懸命に金方慶の無罪を主張し、最終的にはクビライ御前での裁判となるはずだったが、その直前に韋得儒と盧進義が不審死したため、許されて帰還を果たす。
 
1281年、弘安の役に臨んでは、クビライから中善大夫管領高麗国都元帥の称号と四品の官位を与えられた。
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破損し漂流する船団に残された兵・水夫の多くは、武士団の討伐を受け討ち取られた。『日本外史』によると、「屍が海を覆い、海の上を歩いて渡れるほどであった」という。また、鷹島などに置き去りにされた将兵は、伐採した木で船を造り帰還しようと試みるも、[[竹崎季長]]ら幕府御家人による掃討戦で全滅する。
 
=== その後 ===
以後も忠烈王の信頼は厚く、[[1283年]]に靖難定遠功臣、三重大匡、僉議中贊、判典理司事、世子師となり、更に後[[1295年]]、僉議令、上洛郡開国公となった。死後は忠烈と諡されている。
子に金愃、金忻、金恂。女婿に趙抃。義男(養子)に韓希愈、安迪材などがいる。
 
金愃は副知密直司事に至る。金忻(1251-1309)父に従って耽羅を討ち、日本侵攻に従軍し、大将軍、司宰卿、咨議都僉議司事に至り、上洛公を襲封した。金恂(1258-1321)は[[1279年]]に登第し、若年で従軍を父から許されず、密航して日本侵攻に参加した。密直副使、判三司事に至る。
金恂の曾孫である金士衡は[[李氏朝鮮]]の重臣となり、[[1396年]]の[[高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻|対馬侵攻]]計画の指揮官となったことでも知られる。その兄の金士廉は、[[李成桂]]の簒奪に反対した杜門洞七十ニ賢の一人として死んだ。
 
[[1592年]]の[[文禄の役]]での第一次[[晋州城攻防戦]]守将、晋州牧使[[金時敏]]も金方慶の子孫である。
 
 
本文中の高麗の官制については{{Main|ノート:武人時代 (テレビドラマ)/軍制・官制}}
 
== 人物 ==