「ポール・サミュエルソン」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[1915年]]に[[インディアナ州]][[ゲーリー (インディアナ州)|ゲーリー]]の[[ユダヤ人]]家庭に生まれ、大恐慌の最中であった[[1932年]]には16歳で[[シカゴ大学]]に入学、[[1935年]]に卒業した<ref name="ida2013"/>。その後、[[1936年]]に[[ハーバード大学]]大学院に進学し、[[1941年]]に博士号を取得した<ref name="ida2013"/>。シカゴ大学で[[フランク・ナイト]]ら[[シカゴ学派 (経済学)|シカゴ学派]]から価格理論を叩き込まれ、ハーバード大学で[[数学]]や[[物理学]]を修めたことが、後の彼の理論的性格を方向付けたと言われる<ref name="sawa2001">[[佐和隆光]]「P.A.サミュエルソン:科学としての経済学」、日本経済新聞社編著(2001)『現代経済学の巨人たち-20世紀の人・時代・思想』、日本経済新聞社、pp.58-72。</ref>。学位取得に先立ち、[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]で教鞭を執り、[[1944年]]に[[准教授]]、[[1947年]]には[[教授]]となった<ref name="ida2013"/>。<br>1947年に出版された『経済分析の基礎』で一躍有名になり、その後は、[[ジョン・ベイツ・クラーク賞]]受賞(1947年)、[[Econometric Society|計量経済学会]]会長([[1953年]])、[[アメリカ経済学会]]会長([[1961年]])、[[アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞]]受賞([[1970年]])、[[アメリカ国家科学賞]]受賞([[1996年]])など、数々の栄誉に輝いた<ref name="ida2013"/>。また、戦時生産局、財務省、経済顧問会議、予算局、連邦準備銀行など、多くの政府諸機関で補佐官を務めた<ref name="blaug1994"/>。<br>[[2009年]] に[[マサチューセッツ州]]の自宅で死去。94歳であった<ref>[http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-12921720091214 ノーベル経済学賞のP・サミュエルソン氏が死去、94歳](ロイター、2009年12月14日)2015年10月最終閲覧。</ref>。
 
== 業績 ==
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*{{要出典|範囲=経済学を電気回路理論など物理現象を模擬して、数学的に精密化し、[[モデル科学]]として提案した<ref> 経済分析の基礎</ref>
|date=2015年10月}}。
 
== 政策 ==
*サミュエルソンは、『経済学』の第3版で、[[不況]]時に[[公共投資]]を実施することによる有効性を指摘し、総需要政策で景気の過熱や過度の後退を避けることで、前進的成長を維持できるとし、新古典派経済学とケインズの唱えたマクロ経済学を融合を図る新古典派総合を提唱した。{{要出典|範囲=この理論は、[[1960年代]]の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]政権に多大な影響力を与え、サミュエルソンは、[[ジョン・F・ケネディ]]や[[リンドン・ジョンソン]]の大統領顧問を務めた。|date=2015年10月}}。
 
== 批判 ==