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'''イェス・モンケ'''
== 生涯 ==
▲'''イェス・モンケ'''(? - [[1252年]])は、[[モンゴル帝国]]の皇族で、[[チャガタイ・ハン国]]の第3代君主(在位:1246年 - 1252年)。[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の次男[[チャガタイ]]の五男。
チャガタイは生前孫の[[カラ・フレグ]]を自らのウルス(所領)の相続人に指名し、[[1241年]]にチャガタイが没した後カラ・フレグがチャガタイのウルスを相続した
<ref name="CMD2-229">ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、229頁</ref>。[[1246年]]に[[モンゴル帝国]]の[[ハン|大ハーン]]に即位した[[グユク]]はイェス・モンケを支持し、カラ・フレグに代えて彼をチャガタイ・ウルスの支配者に任命した<ref name="CMD2-229"/>。
在位中のイェス・モンケは飲酒に耽り、政務は妃と宰相のバハーアッディーン・マルギーナーニーに一任していた<ref>グルセ『アジア遊牧民族史』下、524頁</ref>。グユクの死後に開催された[[クリルタイ]]でチンギス・ハーンの四男[[トゥルイ]]の子[[モンケ]]が新たな大ハーンに選出されるが、イェス・モンケは即位式への出席を拒否した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、272-274頁</ref>。[[1251年]]に大ハーンに即位したモンケはカラ・フレグをウルスの支配者の地位に戻し、イェス・モンケの処刑を命令するが、カラ・フレグはモンケの命令を果たす前に没した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、290頁</ref>。カラ・フレグの妃[[オルガナ]]によってイェス・モンケは処刑され、マルギーナーニーはチャガタイ時代の宰相ハバシュ・アーミドによって処刑された<ref>グルセ『アジア遊牧民族史』下、525頁</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年12月)
* ルネ・グルセ『アジア遊牧民族史』下(後藤富男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1979年2月)
* 『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社, 2005年4月)
{{先代次代|[[チャガタイ・ハン国]]の君主|1246年 - 1252年|[[カラ・フレグ]]|([[カラ・フレグ]](復位))<br />[[オルガナ]](監国)}}▼
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