「慈恩寺 (寒河江市)」の版間の差分

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重文の明細追記
菖蒲沼、禅定院、聞持院の座標を追加、誤字を修正。
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[[文治]]5年([[1189年]])寒河江荘の[[地頭]]に[[大江広元]]が[[補任]]されると、慈恩寺も次第に[[寒河江氏|大江氏(寒河江氏)]]の庇護を受けるようになる。広元の長男[[大江親広]]は[[建久]]3年([[1192年]])寒河江荘を譲り受けるが、[[承久]]3年([[1221年]])[[承久の乱]]で失脚し寒河江荘に隠棲する。ただし、親広の子の[[大江広時]]、広時の子の[[大江政広]]は[[鎌倉幕府]]の要職にあり鎌倉に定住していたため、政広の子の[[大江元顕]]が初めて寒河江に入部したと言われている。『永正本大江系図』によれば、広元の末子・尊俊が別当坊を継いだことが記録され、『最上院系図』によると親広の孫・成広が別当二十二代を相続して幸繁を称し、三十代幸海・三十五代幸道も大江氏から入った<ref>『寒河江市史 上巻』 p.307 </ref>。このことは端的に、慈恩寺と大江氏が密接な関係を結んでいたことを示している。[[安貞]]2年([[1228年]])勧進僧恵玄房経円が[[白山権現|白山神社]]御宝前に木造の聖観音懸仏を納める([[奈良国立博物館]]所蔵)。[[正応]]3年(1290年)良源阿闍梨により求聞持堂が築造され、虚空菩薩像を安置し聞持院と称した。ここでは虚空蔵求聞持法という密教の修行を行った。ここにはこれ以前薬師堂が建てられており、薬師三尊及び十二神将を安置していたという<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』 p.63-64 </ref>。[[永仁]]4年([[1296年]])に火災で本堂及び本尊弥勒菩薩以下の諸仏が焼亡するが[[正安]]元年([[1299年]])再建が開始され8年後に完成している。
 
[[正慶]]2年([[1333年]])鎌倉幕府が[[新田義貞]]によって攻め込まれると、中央で鎌倉方に与した[[大江貞広]]なども[[北条高時]]に殉じた。貞広の弟懐顕や子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてくることになるが(『大行院大江系図』)、このことが契機となり、寒河江氏は[[南朝 (日本)|南朝]]方陸奥守[[北畠顕家]]の配下に付いた。元顕の子[[大江元政|元政]]は[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])に北畠軍による[[足利尊氏]]の攻撃に参加し、戦功を挙げている(『金仲山眼明阿弥陀尊略縁起』)。しかし、尊氏が軍を立て直し京を奪回すると[[延元]]3年([[1338年]])には北畠顕家が[[和泉国]]堺石津で戦死、同年新田義貞が戦死、翌年[[後醍醐天皇]]が没し、南朝は苦戦を強いられるようになる。[[東北地方]]においては、北畠顕家の弟[[北畠顕信]]が下向し寒河江氏はその元で寒河江荘北方を奪還するなど慈恩寺近辺においても戦乱の様相を呈する。[[文和]]3年/正平9年([[1354年]])[[斯波家兼]]が[[北朝 (日本)|北朝]]の[[奥州管領]]として下向すると[[陸奥国]]は北朝の勢力下となり、[[延文]]元年/[[正平 (日本)|正平]]11年([[1356年]])子の[[斯波兼頼]]が[[出羽国]]に進出し、延文4年/正平14年([[1359年]])大江元政が打ち取られたという。
 
これ以降、寒河江氏は[[斯波氏]](後の[[最上氏]])の圧力にさらされることになり、延文元年/正平11年(1356年)火災により慈恩寺本堂・釈迦堂以外が焼亡しているが、大規模な造修の記述も乏しくなる。さらには、[[応安]]元年/正平23年([[1368年]])大江氏と斯波氏は[[漆川の戦い]]で激突し、大江氏は滅亡こそ免れたものの[[寒河江時氏]]以外の一族61人を失うという壊滅的な打撃を受けて北朝へ降伏。時氏の子[[寒河江元時|元時]]を[[鎌倉]]に人質として出し、所領は縮小されたものの安堵された。これ以降[[東国]]における南朝側の組織的な抵抗は収束し、慈恩寺も一時の平穏を得ることになる。しかし、慈恩寺を庇護する寒河江氏の勢力縮小は、寺社経営を宗徒による自活へと舵を切らせる。
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=== 戦国時代~江戸時代 ===
[[Image:Jionji Temple 2007.jpg|thumb|220px|三重塔]]
[[応仁]]元年([[1467年]])[[応仁の乱]]が始まると室町幕府の衰微が明らかとなり、東北地方においても国人領主の台頭が顕著になる。[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])伊達氏が寒河江城を攻めるが、寒河江氏一族の結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓紙を納めている(『幹縁疏』)。この時は冬の厳しさにより干戈を交えず撤退した伊達氏だったが、文明12年([[1480年]])再び侵攻すると菖蒲沼{{ウィキ座標|38|23|19.4|N|140|16|07.4|E|region:JP||name=菖蒲沼}}(現:寒河江市大字寒河江字菖蒲沼)付近で激闘となり、寒河江氏は伊達側大将桑折播磨守を打ち取っている。同年桑折播磨守の菩提を弔う時宗松蔵寺が開かれ、後に最上院滅罪の寺となった。[[永正]]元年([[1504年]])山形城主[[最上義定]]が寒河江領に攻め入り、兵火により一山仏閣、坊舎が悉く焼亡してしまう。これと同時に宝物も散失してしまったが、本堂の諸仏は難を逃れ1躯も焼失しなかった(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。仮本堂が築造されるが、寒河江氏において[[白岩氏]]・[[溝延氏]]・[[左沢氏]]などの[[庶家|庶流]]が独立傾向を強めたことや、たびたび伊達氏・最上氏の抗争に巻き込まれたことから往時の本堂を再建する余力はなく、再建は[[江戸時代]]を待つことになる。[[天文 (元号)|天文]]年間([[1532年]]~[[1555年]])に葉山との関係を断ち、これ以降は三合山([[十部一峠]])を奥の院とした。このことが契機となり葉山修験は次第に衰退し、江戸時代には[[出羽三山]]から葉山が外れることになる。[[天正]]11年([[1583年]])最上氏は庄内[[武藤氏]]の攻略を企図し、[[武藤義氏]]は家臣前森氏に謀反を起こされてしまう。[[寒河江高基]]は義氏救援のために[[大越 (山形県の峠)|六十里越]]を庄内に向けて進軍したが、途中で義氏自害の報に接し、引き返している。この時高基は大綱[[注連寺]]より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進した。天正12年([[1584年]])最上氏の攻撃によりに高基が自害し寒河江氏が滅亡すると、慈恩寺は最上氏の庇護を受けるようになり、所領は黒印地として安堵された。<!--寒河江大江一族滅亡に際し、[[天童頼久]]の娘を母とする良光は[[蘆名氏]]を頼って[[会津]]へ逃れるが、最上氏へ下った旧家臣らの嘆願により義光は大江氏宗廟の阿弥陀堂を再建し、その仏餉采地として118石9斗余を寄進して良光を別当として招いた。良光は[[天海]]の剃髪を受けて仏門に入り安中坊(あんちゅうぼう)を称した(『安中坊系譜』)。-->
{{familytree/start|style=font-size:70%;}}
{{familytree|border=1 | AAA |-| BBB |v| CCC |-| DDD | AAA=[[寒河江元時]] | BBB=[[寒河江元高|元高]] | CCC=高重 | DDD=広重}}
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== 院坊 ==
[[Image:INBOU_Place_1870.jpg|thumb|220px|明治3年の一山配置<ref>『院坊の文化財 図録』p.2-3</ref>]]
慈恩寺は3ヵ院48坊からなる一山寺院を形成し、鎮護国家、除災承服招福を祈願する寺院であった。一山を代表する支配職は、真言方は宝蔵院・華蔵院、天台方は最上院の3ヵ院で、所属の院坊をまとめ、幕府など大檀那への年礼を主とした<ref>『院坊の文化財 図録』p.6 </ref>。現在は3ヵ院17坊が一山を支える。
 
=== 3ヵ院 ===
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* 中門
: 仁平年間(1151年~1153年)築造。五間。金剛力士二尊を安置する。延文元年/正平11年(1356年)焼失か。
* 薬師堂{{ウィキ座標|38|24|37.8|N|140|15|22.6|E|region:JP||name=聞持院}}
* 薬師堂
: 中院(または東院、上の寺:現在の本堂より500mほど東)に築造されていたが建立者・時期は不明。薬師三尊、十二神将を安置する。正応3年(1290年)良源阿闍梨により聞持院と改められ、1504年の兵火は免れたと思われるが江戸時代には廃れ、安置されていた仏像などは本堂東の薬師堂に移された<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』p.63-64</ref>。
* 禅定院{{ウィキ座標|38|24|39.9|N|140|14|46.4|E|region:JP||name=禅定院}}
* 禅定院
: 西院と呼ばれ現在の本堂より250mほど西に築造されていたもので、頼覚上人によって建立された。本尊の木造阿弥陀如来坐像(現在は慈光明院(山形市)の本尊)の墨書名が寛元5年([[1247年]])であるから13世紀の半ばには建立されていたとみられる<ref>『寒河江市史 上巻』 p.427-428 </ref>。戒堂三間、僧堂三間、庫院三間、不動堂、経堂三間からなっていたという。享保12年(1727年)の時点で阿弥陀堂のみが残っており、現在は浄土宗不動山[[正覚寺 (寒河江市)]]の阿弥陀堂として移築されている。