「破六韓抜陵」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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== 経歴 ==
[[匈奴]][[南匈奴#十九種族|屠各種]]の支族で[[破六韓部]]の祖とする右谷蠡王潘六奚の後裔とされる<ref>『[[北斉書]]』巻27 破六韓常伝</ref>。[[524年]]([[正光]]5年)3月、沃野鎮で人々を集めて反乱を起こし、沃野鎮将を殺し、[[真王 (破六韓抜陵)|真王]]元年の元号を立てた<ref name="gisho9">『[[魏書]]』巻9 粛宗紀</ref><ref name="hokushi4">『[[北史]]』巻4 魏本紀第4</ref>。部将の衛可孤らを東に派遣して、[[武川鎮]]と[[懐朔鎮]]を包囲させた。4月に高平鎮の[[胡チン|胡琛]]が起兵するなど、抜陵に呼応して反乱を起こすものが相次いだ。5月、抜陵は北魏の臨淮王[[元イク|元彧]]を五原で撃破した<ref name="gisho9"/><ref name="hokushi4"/>。また安北将軍の李叔仁を白道で撃破した<ref name="gisho66">『魏書』巻66 李崇伝</ref>。北魏の[[李崇]]が[[崔暹]]・広陽王[[元淵]]・[[李神儁|李神軌]]らを率いて北伐してくると、抜陵は7月に白道の北で崔暹を破り、李崇に猛攻を加えて李崇を雲中に撤退させた。抜陵は李崇と対峙して冬に及んだ<ref name="gisho66"/>。李崇は長史の祖瑩による軍資横領事件の責任を問われて、洛陽に召還され、魏軍の指揮権は広陽王元淵に引き継がれた<ref name="gisho66"/>。[[525年]]([[孝昌]]元年)3月、抜陵の別帥の王也不盧らが懐朔鎮を攻め落とした<ref name="gisho9"/>。[[柔然]]の[[郁久閭阿那カイ|阿那瓌]]が北魏を救援するために起兵し、10万の兵を率いて武川鎮から沃野鎮を攻撃してきた。抜陵は柔然に連敗した。<ref>『魏書』巻103 蠕蠕伝</ref>。6月、抜陵は五原に駐屯する北魏の広陽王元淵の軍を包囲したが、[[賀抜勝]]率いる騎兵200に敗れ、撤退を余儀なくされた<ref>『[[周書]]』巻14 賀抜勝伝</ref>。また北魏の長流参軍の[[于謹]]が抜陵麾下の西部[[鉄勒]]を調略して3万戸あまりを脱落させた<ref name="shusho15">『周書』巻15 于謹伝</ref>。抜陵は広陽王元淵の伏兵の攻撃を受けて敗走し<ref name="shusho15"/>、さらには抜陵は柔然に敗れて、部将の孔雀を斬られた<ref name="gisho9"/>。抜陵は少数の部下とともに[[ウガブ川|北河]]を南に渡って逃走した。抜陵の終焉は知られていない<ref>『[[資治通鑑]]』巻150胡注は『繋年図』を引いて、この年のうちに抜陵は柔然に殺害されたとする説を示す。しかし『資治通鑑』巻151が、この翌年に当たる[[526年]]の出来事として、抜陵がその臣の費律を高平に派遣して胡琛を誘い出して斬った話を載せている。</ref>。
 
== 脚注 ==