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'''ネメア祭'''([[ギリシア語|希]]:Νέμεα,Νέμεια)Νέμεια、[[英語|英]]Nemean Games)は、[[古代ギリシア]]における[[ネメアー]]で開催された全ギリシア的大祭。[[古代オリンピック]]、[[イストミア大祭|イストミア祭]]、[[ピューティア大祭]]と並んでギリシア四大大会の一角を占める。
 
ネメア祭は、[[古代オリンピック]]とピューティア大祭の行われない年(イストミア大祭と同様に、二年ごとに)開催された。古代オリンピックと同じく神々の王[[ゼウス]]の栄光を祝う大祭であった。したがって、古代オリンピックと類似点も多く、競技役員をヘラノディコスと呼ぶことや、開催期間中に聖なる休戦を行ったことも同じである<ref>フランソワ・シャムー、桐村泰次訳『ギリシア文明』論創社</ref>。
 
紀元前6世紀頃(紀元前573年)には存在したことが確認されており、優勝者は[[アルゴス]]から持ってきた[[セロリ]]の冠を受け取ることが出来た。
 
== 神話 ==
[[アポロドーロス]]や[[パウサニアス]]によれば、このネメア祭は、リュクールゴスとエウリュディケーの幼い息子[[オペルテース]]の死を記念して[[テーバイ攻めの七将]]が設立したものだという。テーバイ攻めの七将がネメアーに着いた時、喉が非常に渇いていたので、水を求めた。リュクールゴスとエウリュディケーの幼い息子[[オペルテース]]の乳母であった[[ヒュプシピュレー]]は、これに応えて彼らを近くの泉に案内した。その間、幼子のオペルテースを草原に放置してしまった。ヒュプシピュレーは「子供が歩けるまでは地面に置いてはならない」という神託を受けていたのであるが、それを忘れてしまっていた。ヒュプシピュレーが帰ってきた時には、オペルテースは大蛇(または[[ドラゴン]])によって食い殺されてしまっていた。これを見た七将は、大蛇を退治し、オペルテースを供養するために競技会を開催した。
 
また、[[ヘーラクレース]]が[[ネメアーの獅子|ネメアーのライオン]]を退治した記念に開催したという説や、テーバイ攻めの七将によって設立されたネメア祭を、ヘーラクレースがさせ、ゼウスの栄光を讃える競技会にしたという説もある。
 
== 歴史 ==
紀元前6世紀頃(紀元前573年)には存在したことが確認されている。最初、ネメア祭は戦士のための競技会であり、戦士たちやその息子たちのみが参加を許された。しかしその後、ネメア祭は全ギリシア人に開放された<ref>Pindar, Nem. iii. 114, etc</ref>。この競技会はクレオナイとプリウスの木立の間で執り行われた。
 
種目は多様であり、アポロドーロスによれば、[[競馬]]、重装歩兵走り、[[レスリング]]、[[古代ギリシアのボクシング|ボクシング]]、戦車レース、[[槍投げ]]、[[弓術]]、更には音楽コンクールまで行われていたようである。
 
勝者へ贈られる賞品は、最初は古代オリンピックと同じく[[オリーヴ]]の冠であったが、後に[[アルゴス]]から持ってきた[[セロリ]]の冠になった。審判は黒衣を纏ったとパウサニアスは伝えている。
 
== 脚注 ==