「アルフレッド・シスレー」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[ファイル:Alfred Sisley 033.jpg|thumb|200px|right|洪水と小舟 1876 オルセー美術館]]
シスレーは1839年10月30日、裕福なイギリス人の両親のもと[[パリ]]に生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。
 
1857年、18歳のときに[[ロンドン]]に移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、4年後商業よりも美術は中断して関心を持ち[[パリ]]に戻る。ジョゼフ・マンで・ウィリアム・ターナー|ターナー]]や[[ジョン・コンスタブル|コンスタンブル]]等の作品に触れたシス。4年後中断して[[パリ]]に戻り、[[フデリック・バジは1862年から ル]]のすすめで[[マルク=シャルル=ガブリエル・グレール]]のアトリエで学び、また[[フレデリック・バジール]]、[[クロード・モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]らと出会う。彼らは共に、スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはあまりなかった。彼らの作品は当時の[[サロン]]の審査員からは受け入れられなかった。1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場あった。当時はとくにルノワールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品している。
 
1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年、マリー・レクーゼクとしても知られる)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。<ref>Turner 2000, pp.&nbsp;400&ndash;401.</ref>当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まる[[カフェ・ゲルボワ]]の常連ともなっていた。
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1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。
 
1870年、 [[普仏戦争]]勃発し、[[ブージヴァル]]住んでたシスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年にはが破産、経済的必要を満たすために作品を売るしかなくなる。しかしシスレーの作品はなかなか売れず、以後彼は死ぬまで困窮した中で生活することになる。<ref>Denvir 2000, p. 265.</ref> 1871年、[[パリ・コミューン]]を避け[[ルーヴシエンヌ]]にほど近い[[ヴォワザン]]へ移住。その後、[[アルジャントゥイユ]]、[[ブージヴァル]]、[[ポール=マルリ]]にも移住。
 
経済的困難もあったが、後援者の助けもあり何度かイギリスに短い旅をしている。最初の機会は1874年で、第一回印象派展の後に熱心な収集家で著名なオペラ歌手であったジャン=バティスト・フォールの招きによりイギリスに滞在(7~10月)している。シスレーはロンドン滞在中、[[テムズ川]]上流のモレジーで20近くの作品を制作した。
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1881年には再びイギリスを訪れている。
 
1889年には[[モレシュルロワン]]に移住。1893年よりモレシュルロワンのノートルダム教会を連作で14点描いた。
 
1897年にはパートナーのウジェニーと共に再びイギリスを訪れ、8月5日には[[カーディフ]]で婚姻届を提出した。<ref>[http://www.museumwales.ac.uk/en/rhagor/article/?article_id=138 www.museumwales.ac.uk]</ref> 二人はカーディフ近郊のペナースに滞在し、シスレーは少なくとも6枚の油彩画を制作した。8月中旬にはガウワー半島の[[:w: Langland Bay |Langland Bay]]のホテルに移り、少なくとも11枚の油彩画を制作した。10月にフランスに戻っており、この旅が祖国を訪れた最後になった。[[カーディフ国立美術館]]にはこの時の作品が所蔵されている。
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その後、シスレーはフランスの市民権を得ようと申請するが、却下された。2度目の申請時には病気が原因で却下されたという。<ref>BBC Radio 4 6th November 2008, Misfits in France</ref>
 
シスレーは1899年1月29日、モレシュルンにて[[喉頭]]のため死去した。妻が癌で亡くなった数か月後のことであっ、二人はモレ=シュル=ロワンの墓地に埋葬された。
 
== 典型的な印象主義者 ==
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|1877年
|油彩・カンヴァス
|45645.x566x56.0cm
|[[島根県立美術館]]
|
165行目:
|サン・クルー近くのセーヌ川、増水
|343
|1879
|油彩・カンヴァス
|38.4x55.3cm
186行目:
|油彩・カンヴァス
|50.0x65.0cm
|[[イセ食品|イセ文化基金]]
|
|-
 
|セーヴル磁器工場
|1879年
|
|1879年
|油彩・カンヴァス
|
|.x.cm
|[[マスプロ美術館]]旧蔵
|
230行目:
|1880年
|油彩・カンヴァス
|
|.x.cm
|[[京都国立近代美術館]]寄託
|
425行目:
|}
 
* 『アルフレッド・シスレー展 ─印象派、空と水辺の風景画』pp.162-163を元に作成。空欄は詳細が不明なもの。なお、個人所蔵の作品がさらに数点あるという。
* レゾネ番号は、カタログ・レゾネ(F.Daulte,alfred Sisley:catalogue raisonné de l'oevre peint ,Édition Durand-Ruel,Lausanne,1959)の番号。