「アルフレッド・シスレー」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Foldingfan (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
Foldingfan (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
||
26行目:
== 略歴 ==
[[ファイル:Alfred Sisley 033.jpg|thumb|200px|right|洪水と小舟 1876 オルセー美術館]]
シスレーは1839年10月30日、裕福なイギリス人の両親のもと[[パリ]]に生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で
1857年、18歳のときに[[ロンドン]]に移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、
1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年、マリー・レクーゼクとしても知られる)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。<ref>Turner 2000, pp. 400–401.</ref>当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まる[[カフェ・ゲルボワ]]の常連ともなっていた。
34行目:
1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。
1870年、 [[普仏戦争]]勃発し、[[ブージヴァル]]に
経済的困難もあったが、後援者の助けもあり何度かイギリスに短い旅をしている。最初の機会は1874年で、第一回印象派展の後に熱心な収集家で著名なオペラ歌手であったジャン=バティスト・フォールの招きによりイギリスに滞在(7~10月)している。シスレーはロンドン滞在中、[[テムズ川]]上流のモレジーで20近くの作品を制作した。
44行目:
1881年には再びイギリスを訪れている。
1889年には[[モレ
1897年にはパートナーのウジェニーと共に再びイギリスを訪れ、8月5日には[[カーディフ]]で婚姻届を提出した。<ref>[http://www.museumwales.ac.uk/en/rhagor/article/?article_id=138 www.museumwales.ac.uk]</ref> 二人はカーディフ近郊のペナースに滞在し、シスレーは少なくとも6枚の油彩画を制作した。8月中旬にはガウワー半島の[[:w: Langland Bay |Langland Bay]]のホテルに移り、少なくとも11枚の油彩画を制作した。10月にフランスに戻っており、この旅が祖国を訪れた最後になった。[[カーディフ国立美術館]]にはこの時の作品が所蔵されている。
50行目:
その後、シスレーはフランスの市民権を得ようと申請するが、却下された。2度目の申請時には病気が原因で却下されたという。<ref>BBC Radio 4 6th November 2008, Misfits in France</ref>
シスレーは1899年1月29日、モレ
== 典型的な印象主義者 ==
149行目:
|1877年
|油彩・カンヴァス
|
|[[島根県立美術館]]
|
165行目:
|サン・クルー近くのセーヌ川、増水
|343
|1879年
|油彩・カンヴァス
|38.4x55.3cm
186行目:
|油彩・カンヴァス
|50.0x65.0cm
|[[イセ食品|イセ文化基金]]
|
|-
|セーヴル磁器工場
|1879年▼
|
▲|1879年
|油彩・カンヴァス
|
|[[マスプロ美術館]]旧蔵
|
230行目:
|1880年
|油彩・カンヴァス
|
|[[京都国立近代美術館]]寄託
|
425行目:
|}
* 『アルフレッド・シスレー展 ─印象派、空と水辺の風景画』pp.162-163を元に作成。空欄は詳細が不明なもの。なお、個人所蔵の作品がさらに数点あるという。
* レゾネ番号は、カタログ・レゾネ(F.Daulte,alfred Sisley:catalogue raisonné de l'oevre peint ,Édition Durand-Ruel,Lausanne,1959)の番号。
|