「島津忠義」の版間の差分

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== 生涯 ==
{{Wikisource|故從一位勲一等公爵島津忠義國葬ノ件}}
島津氏分家の[[重富家]]当主・[[島津久光|島津忠教]]の長男として生まれる。伯父・[[島津斉彬|斉彬]]の[[養子縁組|養嗣子]]となり、[[安政]]5年([[1858年]])の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして哲丸は死去した。しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、次いで後見人となった父・久光(忠教)や[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]らに掌握され、忠徳自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった(ただし、忠徳が実権を取り戻そうとしなかったことが薩摩藩が一致して倒幕運動を行うのに寄与した面もある)。