「アルバート・ハモンド」の版間の差分

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'''アルバート・ハモンド[[OBE]]'''(''Albert(Albert Hammond''[[1944年]][[5月18日]] - )は、[[イギリス]]出身の[[シンガーソングライター]]。「[[カリフォルニアの青い空]]」のヒットで知られる。息子は[[ザ・ストロークス]]の[[アルバート・ハモンドJr.]]。[[OBE]]。
 
 
== 略歴 ==
[[ジブラルタル]]出身の両親の元に[[ロンドン]]で生まれる。両親が[[第二次世界大戦]]の影響で[[ジブラルタル]]から[[ロンドン]]へ避難していた時に生まれた子供であった。大戦後に[[ジブラルタル]]へ戻り、幼少期をそこで過ごした。

1960年にジブラルタルでThe Diamond Boysというバンドを組んでいたが、あまり成功しなかった。しかしジブラルタルに近い[[スペイン]]の音楽シーン(Miguel Ríosなど)には影響を与えたといわれている。
 
ジブラルタルに近い[[スペイン]]の音楽シーン(Miguel Ríosなど)には影響を与えたといわれている。1969年にはイギリスのボーカルグループ、The Family Doggに参加。同グループの「A Way of Life」はUKでトップ10ヒットを記録した。1970年代に入り、[[アメリカ合衆国]]に移住。「[[カリフォルニアの青い空]]」が大ヒットを記録した。シングルは、[[ビルボード]](Billboard)誌で、1972年12月16日に、週間ランキング最高位の第5位を獲得。ビルボード誌1972年年間ランキングは第33位。その後、「フリー・エレクトリック・バンド」や「落ち葉のコンチェルト」などが日本でヒットした。また作曲者としては、[[ホリーズ]]の「安らぎの世界」や[[レオ・セイヤー]]の「ウェン・アイ・ニード・ユー」、カーペンターズの「青春の輝き」などのヒット曲を作曲している。81年には「風のララバイ」が、日本で小ヒットした。
1969年にはイギリスのボーカルグループ、The Family Doggに参加。同グループの「A Way of Life」はUKでトップ10ヒットを記録した。
 
1970年代に入り、[[アメリカ合衆国]]に移住。「[[カリフォルニアの青い空]]」が大ヒットを記録した。シングルは、[[ビルボード]](Billboard)誌で、1972年12月16日に、週間ランキング最高位の第5位を獲得。ビルボード誌1972年年間ランキングは第33位。
 
その後、「フリー・エレクトリック・バンド」や「落ち葉のコンチェルト」などが日本でヒットした。また作曲者としては、[[ホリーズ]]の「安らぎの世界」や[[レオ・セイヤー]]の「ウェン・アイ・ニード・ユー」、カーペンターズの「青春の輝き」などのヒット曲を作曲している。
 
81年には「風のララバイ」が、日本で小ヒットした。
 
2000年に、[[大英帝国勲章]]を授与された。
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*[http://www.independent.co.uk/news/people/profiles/the-five-minute-interview-albert-hammond-singer-and-songwriter-1544687.html Albert Hammond - 5 Minute Interview with John Matthew Hall of The Independent]
 
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[[Category:イギリスングランドのシンガーソングライター]]
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[[Category:イギリスのシンガーソングライター]]
[[Category:ロンドン出身の人物]]
[[Category:ジブラルタル出身の人物]]
[[Category:大英帝国勲章]]
[[Category:1944年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:大英帝国勲章]]