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{{基礎情報 武士
'''甲斐 親直''' / '''甲斐 宗運'''(かい ちかなお / かい そううん、[[永正]]12年([[1515年]]) - [[天正]]13年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]([[1585年]][[7月29日]]))(天正11年([[1583年]])死去とも)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[阿蘇氏]]の家臣。出家後になのった'''宗運'''の号で知られる。[[甲斐親宣]]の子。
| 氏名 = 甲斐親直 / 宗運
| 画像 = Kai Souun.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 =甲斐宗運像(熊本県上益城郡御船町[[:ja:東禅寺 (御船町)|東禅寺]]所蔵)
| 時代 = [[室町時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 =
| 死没 = [[天正]]11年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[1583年]][[8月22日]]<ref name="y13"/>)
| 改名 =
| 別名 =
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| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[阿蘇惟豊]]→[[阿蘇惟将|惟将]]→[[阿蘇惟種|惟種]]
| 藩 =
| 氏族 = 菊池流[[甲斐氏]]
| 父母 = 父:[[甲斐親宣]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 = [[甲斐親英|親英]]、[[甲斐親正|親正]]、[[甲斐宣成|宣成]]、[[甲斐直武|直武]]、女([[甲斐守昌|隈庄守昌]]室)、女([[早川吉秀|早川休雲]]室)、女(伊豆野山城守室)
| 特記事項 =
}}
'''甲斐 親直''' / '''甲斐 宗運'''(かい ちかなお / かい そううん、生年不詳<ref>[[永正]]5年([[1508年]])または永正12年([[1515年]])</ref> - [[天正]]1311年[[7月35日 (旧暦)|7月35日]]([[15851583年]][[782922日]]))(<ref name="y13">天正1113年([[15831585年]])死去という異説ある。</ref>)は、[[戦国時代 (日本)|戦国室町時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[阿蘇氏]]の家臣。出家後になのった'''宗運'''の号で知られる。[[甲斐親宣]]の子。
 
== 生涯 ==
永正12年(1515年)、[[肥後国]][[阿蘇神社]][[宮司]][[阿蘇惟豊]]臣・甲斐親宣の子として誕生。
 
[[大永]]3年([[1523年]])、[[菊池武包]]が[[筒ヶ嶽城]]([[荒尾市]]府本)で挙兵したので、惟豊は親宣(親直初陣)を派遣してこれを討たしめた。武包は[[肥前国]]の[[高来郡|高来]]に逃れ、この功で八百町の領地を褒美として与えられた。
[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])、[[島津氏]]に内通し阿蘇氏に反旗を翻した[[御船城]]主・[[御船房行]]を討伐し、その功によって[[御船城]]を与えられ、城主を務める。[[永禄]]8年([[1565年]])、阿蘇氏からの離反を画策した同族([[娘婿]])の[[甲斐守昌]]の居城・[[隈庄城]]を攻撃し、守昌を追放した。また、永禄5年([[1562年]])に出家し宗運と号す。
 
[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])、[[島津氏]]に内通して阿蘇氏に反旗を翻した[[御船城]]主[[御船房行]]を、千寿丸([[阿蘇惟将|惟将]])を大将として討伐。木倉原(御船原)で多数の首級を挙げる大勝利を収め、房行を自決させ、城を奪った。その功によって親直は千町の領地と[[御船城]]を与えられ、代わって城主に任じられた。([[木倉原の戦い]])
宗運は北は[[大友氏]]、南は[[相良氏]]と同盟を結ぶことで阿蘇氏の独立を保った。しかし、大友氏が天正6年([[1578年]])に島津氏に敗れ、肥後への影響力が低下すると、肥後の国人衆の多くは島津氏や[[龍造寺氏]]についたが、宗運は大友氏との同盟を維持した。天正8年([[1580年]])3月、龍造寺氏に従属した[[隈部親永]]、[[合志親為]]、[[河尻氏]]、[[鹿子木氏]]と、島津氏に従属した[[名和顕孝]]、[[城親賢]]による肥後国人衆の連合軍が阿蘇氏打倒の兵を挙げた。宗運はこれを兵8000を率いて迎え撃ち、[[白川 (熊本県)|白川]]亘過瀬を挟んで対陣。[[間者]]の報告によって、降雨により油断した隈部勢が酒盛りをしていた事を知ると、翌日未明に川を渡河して急襲。隈部勢は大混乱に陥り、敗走させられている。
 
この頃、剃髪して宗運と号した。
天正9年([[1581年]])春、宗運は大友氏に見切りをつけ、龍造寺氏に人質を送り臣従を誓う。一方で、同年9月に相良氏が島津氏の軍門に下り、島津氏はすぐさま当主・[[相良義陽]]に御船城攻略を命じる。義陽は宗運と誓詞を交わした盟友であったが、肥後の国人衆を分断する目的であえて両者を争わせようとしたのである。また、御船の田代城主[[田代快尊]]・宗傳父子は、宗傳が甲斐宗運の妹婿でもあり、相良勢と対峙した。同年12月に義陽は阿蘇領に侵攻したが、宗運の軍勢は濃霧に包まれた[[響野原]]の本陣を背後から奇襲し相良軍を撃破。義陽はあくまでも退却せず、床几に座したまま戦死した([[響野原の戦い]])。義陽は島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招く布陣をしたとされ、義陽の首を見た宗運は落涙したといわれる。
 
天文15年([[1546年]])、同族で宗運の[[娘婿]][[甲斐守昌|隈庄守昌]]<ref>諱は盛昌とも。甲斐守。甲斐上総介敦昌の子。</ref>が、脇差をねだったが断られたことから妻(宗運の娘)に盗ませたが、これが露見し、後難を恐れて宇土の本郷伯耆守を介して島津氏に内通して阿蘇氏からの離反を画策したので、却って惟将は激怒し、宗運に命じて[[隈庄城]]を攻撃させた。宗運は隈之庄の戦いで守昌を破ったが、隈庄城は落ちなかった。天文18年([[1549年]])、惟将は諸将に再び出陣を命じ、城を攻略して守昌の一族を尽く誅殺した。
 
宗運は、外には[[大友氏]]に主従し、肥後では[[相良氏]]と[[名和氏]]との同盟を維持することで阿蘇氏の存続を保っていた。天文15年([[1551年]])、前年に家督を継いだ[[大友義鎮]]が肥後の鎮定のために出兵した。阿蘇氏はこれに従い、大将[[佐伯惟教]]のもとに宗運を案内として派遣した。惟教は[[菊池義武]]派の[[合志隆重]]が寄る[[竹迫城]]を攻撃したが、城は落とせず、人質を出すということで講和して退いた。
 
[[永禄]]5年([[1562年]])頃より、島津氏が肥後国に伸張し、しばしば相良氏と争う。[[天正]]6年([[1578年]])、大友氏が[[耳川の戦い]]で島津氏に敗れて肥後への影響力が低下すると、肥後の国人衆の多くは島津氏や[[龍造寺氏]]についたが、宗運は大友氏との同盟を頑なに維持しようとしたが、弱体化した阿蘇氏の家中では動揺があった。
 
宗運は北は[[大友氏]]、南は[[相良氏]]と同盟を結ぶことで阿蘇氏の独立を保った。しかし、大友氏が天正6年([[1578年]])に島津氏に敗れ、肥後への影響力が低下すると、肥後の国人衆の多くは島津氏や[[龍造寺氏]]についたが、宗運は大友氏との同盟を維持した。天正8年([[1580年]])3月、龍造寺氏に従属した[[隈部親永]]、[[合志親為]]、[[河尻氏]]、[[鹿子木氏]]と、島津氏に従属した[[名和顕孝]]、[[城親賢]]による肥後国人衆の連合軍が阿蘇氏打倒の兵を挙げた。宗運はこれを嫡男[[甲斐親英|親英(宗立)]]と80008,000を率いて迎え撃ち、[[白川 (熊本県)|白川]]過瀬を挟んで対陣。[[間者]]の報告によって、降雨により油断した隈部勢が酒盛りをしていた事を知ると、翌日未明に川を渡河して急襲。隈部勢は大混乱に陥り、敗走させられている。この功を賞して[[大友義統]]は飽田郡池上村を宗運に与えた。([[且過瀬の戦い]])
 
この頃、[[黒仁田親定|黒仁田豊後守]]が[[阿蘇氏]]を裏切って[[伊東氏]]に内通した。黒仁田は親英の舅であったが、宗運は主君への裏切りを許さず、誓紙を書いた嫁一人を除き、黒仁田の一族郎党を皆殺しにし、その首を献じた。また阿蘇家には「井芹党」と号する70名余りの与力衆がおり、この頭の加賀という者が島津氏に与して阿蘇氏を滅ぼそうと企んでいると聞いて、宗運は尽くこれを討った。この党派には宗運の息子達、次男[[甲斐親正|親正]](蔵人)三男[[甲斐宣成|宣成]](三郎四郎)四男[[甲斐直武|直武]](四郎兵衛)も加わっており、次男を討ち、逃げた三男を江俵山に追って討ち、四男は日向に逃亡したが、嫡男の宗立も龍造寺氏に与する計画を持っていたのでこれを追討して捕虜とした。合志伊勢守が助命嘆願をしたので、宗立については起請文を書かせて助命を許した。
 
天正9年([[1581年]])春、宗運は大友氏に見切りをつけ、龍造寺氏に人質を送り臣従を誓う。一方で、同年9月に相良氏が島津氏の軍門に下り、島津氏はすぐさま当主・[[相良義陽]]に御船城攻略を命じる。義陽は宗運と誓詞を交わした盟友であったが、肥後の国人衆を分断する目的であえて両者を争わせようとしたのである。また、御船の田代城主[[田代快尊]]・宗傳父子は、宗傳が甲斐宗運の妹婿でもあり、相良勢と対峙した。同年12月に義陽は阿蘇領に侵攻したが、宗運の軍勢は濃霧に包まれた[[響野原]]の本陣を背後から奇襲し相良軍を撃破。義陽はあくまでも退却せず、床几に座したまま戦死した([[響野原の戦い]])。義陽は島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招く布陣をしたとされ、義陽の首を見た宗運は落涙したといわれる。
 
義陽は島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招く布陣をしたとされ、義陽の首を見た宗運は落涙したといわれる。
 
相良氏との戦いには勝利したものの、阿蘇氏が相良氏の協力なしに島津氏と渡り合うことは困難であった。以降宗運は外交的駆け引きにより龍造寺・島津の二大勢力の間で阿蘇氏の命脈を保つことに腐心した。天正10年([[1582年]])冬に島津氏に和睦を申し入れるが、島津側が提示した条件を何一つ履行せず、逆に阿蘇氏旧領の返還を要求するなどの対応をし交渉を難航させた。
 
天正11年(1583年)または天正13年(1585年)<ref name="y13"/>7月5日に病死。享年75。宗運の孫娘に毒殺されたという説もある。なお、戦国の終わりを察知した宗運は「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、[[矢部]](阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していた。しかし島津氏の内偵は名将宗運死後死を察知し、天正15年(1585年)嫡男・[[甲斐親英|親英]]は島津方が築いた[[花の山城]]を攻撃。これが島津軍の反撃を招くことになり親英は早々に降伏。わずか2歳の阿蘇家当主[[阿蘇惟光|惟光]]は島津氏に降伏したのち、母親に連れられて逃走し、[[戦国名]]としての宮司阿蘇氏は滅亡した。
 
== 宗運毒殺説 ==
宗運は嫡男・親英の娘、宗運の孫娘によって毒殺されたという説がある。
 
阿蘇氏への忠節を頑ななまでに貫いた宗運は、主家を裏切ろうとする者、主家の政策に背こうとする者を容赦なく粛清した。それは息子とて例外ではなく、[[日向国]]の[[伊東義祐]]への接近を試みた二男[[甲斐親正|親正]]、三男[[甲斐宣成|宣成]]を誅殺し、四男[[甲斐直武|直武]]をことごとく誅殺追放た。これに反発して親英が宗運の排除暗殺をもくろんだ親英までが、露見。本来はこれ害しようとしすべきであるが、嫡男であっので、家臣たちの嘆願により思いとどまった。戦国の世とはいえ、我が子を一度に4人も殺害しようというのはきわめて苛烈な処断といえた。
 
これに親英の妻は大いに憤激し恐れ、「舅は必ず夫を成敗する」と考え、娘(木山備後守惟久室)に命じて宗運毒殺を実行させたといわれるこれは、彼女は阿蘇氏家臣・[[黒仁田親定]]の娘であったが、親定はかつて[[伊東氏]]への内通を疑われ、宗運によって暗殺されていたからであり、親定を殺害するにあたり、宗運は親英の妻に「父の殺害を決して怨まず、また宗運に復讐を企てない」旨を神の名にかけて誓約をさせていたという。そのため、親英の妻が娘の手を借りたのは、そのほうが宗運の油断を招きやすいだけでなく、かつての誓約の文言に反しないようにするためであったというのである。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
==参考文献==
* {{Citation |和書|last=渡辺|first=尚広|editor=|year =1923|title=木倉村中心誌|publisher=渡辺尚広|url={{NDLDC|922580/36}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}
* [[近藤瓶城]]編、「改定史籍集覧」通記第十二・菊池傳記, pp.61-
* {{Citation |和書|last=川口|first=素生|editor=|year =2014|chapter=甲斐宗運|title=戦国軍師列伝 : 戦を動かした戦国の頭脳111人|publisher=学研パブリッシング|isbn=9784059008743}}
 
== 関連項目 ==
* [[阿蘇神社]]
* [[足手荒神|足手荒神(甲斐神社)]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www4.ocn.ne.jp/~ashite/ 足手荒神(甲斐神社)]
 
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