「川路聖謨」の版間の差分

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[[文化 (元号)|文化]]5年(1808年)、父・吉兵衛は[[江戸]]に出て[[御家人株]]を入手し、[[徒士|幕府徒歩組]]に編入された。文化9年([[1812年]])、弥吉は12歳で[[小普請組]]の[[川路光房|川路三佐衛門光房]]の養子となる。翌年元服して、弥吉から'''萬福'''(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である[[筆算吟味]]に及第。[[文政]]元年(1818年)に[[勘定奉行]]所支配勘定出役という下級幕吏に採用され、[[支配勘定]]を経て[[勘定 (江戸幕府)|御勘定]]に昇進、旗本となる。その後、[[寺社奉行]]吟味物調役として寺社奉行所に出向。この時[[仙石騒動]]を裁断しており、この一件によって[[勘定吟味役]]に昇格、その後、[[佐渡奉行]]を経て、[[老中]]・[[水野忠邦]]時代の[[小普請奉行]]、[[普請奉行]]として改革に参与した(この頃、名を萬福から'''聖謨'''に改む)。
 
また、勘定吟味役の職務の関係で西洋諸国の動向に関心を持つようになり、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。[[江川英龍]]や[[渡辺崋山]]らと共に[[尚歯会]]に参加し、[[天保]]10年(1839年)の[[蛮社の獄]]にあやうく連座しかけたとする通説があるが、近年の説では聖謨や江川は尚歯会に参加しておらず、蛮社の獄に連座する可能性もなかったとされる
 
水野忠邦が[[天保の改革]]で挫折して失脚した後、[[遠国奉行#奈良奉行|奈良奉行]]に左遷されている。奈良奉行時代には行方不明となっていた[[神武天皇]]陵の捜索を行い、『神武御陵考』を著して[[朝廷]]に報告している。後に[[孝明天皇]]がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させたといわれる。