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== 概説 ==
「異端 ({{lang-en|heterodoxy}})」は「正統 ({{lang-en|orthodoxy}} 正統)」の動的な対概念である。[[宗教学]]辞典などで、異端は正統あっての異端、つまり「異端」という概念というの「正統」という概念があってはじめて成立するものであり、それ自体で独立して成立する概念ではない。「[[正統]]」と見なすものがあり、それではないものを「異端」と見なすということである。<ref> 「{{要出典範囲|正統は原初のものを「正しく受け継ぐ系統」を意味する|date=2015年4月}}。
 
{{誰|date=2015年4月}}「{{要出典範囲|異端の指摘をされる場合は、受け継がれる系統接続に齟齬があったり原初の解釈に主観的な差が生じたりなどで、客観性が保てなくなった主張が複数ある状態だ|date=2015年4月}}」{{いつ|date=2015年4月}}
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</ref>
 
正統からはずれたものと見なすこと、異端として扱うことを「異端視」と言う<ref name="koujien_5" />。
 
何が正統で何が異端かについての論争は「異端論争」と呼ばれている。例えば、キリスト教で言えば、アタナシウスの教えを正統としアリウスの教えを異端としたニケーヤ会議([[第1ニカイア公会議]])は歴史的かつ典型的な異端論争である<ref name="shuukyougaku_itan" />。
 
[[儒教]]でも、異端に対する徹底的な排が起きた。[[キリスト教]][[イスラム教]]などでも、大きな事件が起きたこともあった。
 
イギリスの[[ワーバートン]]が述べた「正統は私の意見であり、異端は他人の意見だ」という表現にも端的に現れているように、異端論争には主観主義的な要素が含まれる傾向がある<ref name="shuukyougaku_itan" />。
 
正統 / 異端の区別は、思想[[イデオロギー]]などにおいても重大な関心事となる<ref name="shuukyougaku_itan" />。例えば、[[マルキシズム]]や[[天皇制思想]]思想のように[[絶対主義]]的な主張内容を含むイデオロギーなどでそうなる<ref name="shuukyougaku_itan" />。政治面では、[[スターリン主義]]が他の共産主義諸派を異端として排斥・撃し[[粛清]]した事件がある<ref name="tetsugakushisou" />。経済面では、(普段 日常的に資本主義社会の中に埋没して生活していると見えなくなってしまっているが [[資本主義]]社会では、資本主義的自由経済主義が自己当化統視され、強調されすぎており<ref name="tetsugakushisou" />、経済に関する他の主義([[共産主義]]、[[統制経済]]など)は異端視され排されている。反対に同じくたとえば北朝鮮の国内などでは、政府は「[[社会朝鮮民主主義人民共和国]]ばかり」を称しながら、支配者たる金王朝の思想である[[主体思想]]のみが正当化統視され擁護され、国号に含まれる[[自由民主主義]]が異端視され排されている。なぜ絶対主義でそれが重大な関心事なるかというと、教義を正しく理解しその唯一絶対性を守ることに熱心であると、それは同時にその絶対性を傷つけたり統一を破るもの害なう存在に対しては厳しい警戒の念を抱くことになるからである<ref name="shuukyougaku_itan" />。
 
上述のように、正統 /異端 の用法は、宗教的領域からはじまって、[[政治]]・[[文化]]・[[経済]]などの領域にまで類比的に広く用いられている<ref name="tetsugakushisou" />。また同様の概念は、広く[[学問]]([[科学]])等々の領域でも存在している。
 
「異端」という語は、歴史的背景から現代でも基本的には何かしらの反感嫌悪感を込めて使用されているが、[[芸術]]など創造性・独創性が高く評価される分野においては、<!--{{要出典範囲|「[[孤高]]」にも通じる|date=2011-8}}-->賞賛の言辞として用いられることもある。
 
上述のように絶対主義などでは異端を極端かつ無条件に排斥・排除してしまうわけであるが、(異端が存在することを許し)異端をつねに生んでゆく思想というのは、創造的な思想だとも言える<ref name="shuukyougaku_itan" />とも指摘されている。
 
既成宗教の問題点を指摘し、人々のためにその変革を試みる人物は多くの場合、既成宗教から最初は「異端」と見なされることになる。