「泰範」の版間の差分

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[[奈良]][[元興寺]]で[[出家]]した後、[[最澄]]に師事した。[[弘仁]]元年([[810年]])に最澄と共に比叡山に住持仏法の三章を作り[[寺観]]を定める。弘仁3年6月最澄の病気により[[比叡山]]総別当に任じられるが、山内の紛争(泰範は「自身の不都合により衆僧に迷惑をかけた」という理由で最澄に休暇を願い出ている)により[[近江国]]髙島に隠遁した。
 
弘仁3年10月27日、最澄は空海から、灌頂付法を12月10日に行うと約束され、11月5日、7日には泰範に空海のもとで共に[[灌頂]]を受けようと2度にわたり説得している。最澄への[[高雄山寺]](後の[[神護寺]])での灌頂は予定より早く11月15日に金剛界灌頂が行われ、泰範ら最澄の弟子でなく高雄山寺の檀越である[[和気真綱]]らがともに入壇した。この灌頂は予期しないものだったらしく、最澄は泰範に高雄山寺滞在中の食料として米を早急に送るよう要請している。12月24 24日、泰範は最澄やその弟子らとともに[[胎蔵界]]灌頂を受け、翌弘仁4年3月6日に泰範は円澄ら最澄の弟子とともに[[金剛界]]灌頂を受けた。<ref name="denkyou">ここまで最澄と泰範の関係については、『伝教大師消息』による。</ref>
 
この後、ほか最澄の弟子らはみな比叡山に帰ったが、泰範は高雄山に留まった。彼を愛弟子として、また後継者として目していた最澄は再三比叡山に戻るよう促すも、泰範が比叡山に戻ることはなかった。最後は弘仁7年5月、空海が泰範の手紙を代筆して最澄との宗教上の見解の相違と叡山に帰る意志のない旨を記し最澄に送った<ref name="ketubetu">『高野雑筆集』所収の書簡。『性霊集』巻十の「為泰範答叡山澄和尚啓書」と同じ。</ref>。