「新庄藩」の版間の差分

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{{Otheruses|羽前国にあった新庄藩|大和国にあった同名の藩|大和新庄藩}}
{{JIS2004| 説明=「戸沢正諶」の4文字目}}
 
'''新庄藩'''(しんじょうはん)は、[[出羽国]]([[羽前国]])[[最上郡]]全域(現在の[[山形県]][[新庄市]]周辺)と村山郡の一部(現在の[[北村山郡]][[大石田町]]・[[村山市]]・[[河北町]])を統治した[[藩]]。居城は[[新庄城]]。
 
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[[慶安]]3年([[1650年]])に政盛が死去し、その跡を[[戸沢正誠]]が継いだ。正誠の時代は60年の長きにわたったために藩政が安定化し、城下町の完成、家臣の新規召し抱え、領内総検地、貢租体系の改正(天和の盛付)、地方知行から蔵米制への移行寛文8年([[1668年]])といった改革も多数行なわれて、新庄藩は最盛期を迎えた。米収入では[[元禄]]13年([[1700年]])には13万200余俵、人口では元禄16年([[1703年]])に5万8,000余人に達する。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政が悪化。第3代藩主[[戸沢正庸]]はこのような事態を打開するために厳しい倹約令(生徳の条々)を敷き、さらに地方整備などの藩政改革に取り組んだが、あまり効果は見られなかった。そして[[宝暦]]・[[天明]]・[[天保]]とこの地方に飢饉が襲いかかるに及んで年貢収納高は激減し、藩財政は破綻寸前となった。この頃の新庄藩の衰退を示すものとして、負債だけでも9万4000両(藩の3、4年分の収入)、人口では最盛期に6万近くを数えたが、この頃では4万5000人にまで落ち込んでいた。
 
このような中で歴代藩主、特に第5代藩主[[戸沢正のぶ|戸沢正諶]]や第10代藩主[[戸沢正令]]は財政再建を主とした改革を目指したが、前者は改革に効果が見られず、後者は家督相続から4年にして急死するという不幸から、それぞれ失敗に終わった。しかし正令時代の家老・[[吉高勘解由]]が正令の遺志を引き継ぎ、緊縮財政・税制改革・養蚕奨励・新田開発などを主とした嘉永の改革を行なった結果、藩財政は再建されることとなった。
 
[[慶応]]3年([[1867年]])の[[庄内藩]]、[[上山藩]]、[[庄内藩|出羽松山藩]]等による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]では、[[薩摩藩]]と直接交戦はせず、江戸市中の巡邏を担当した。翌年([[1868年]])からの[[戊辰戦争]]では開戦当初の4月、新政府側の奥羽鎮撫軍が新庄に入ったため、4月23日に共に庄内領清川に攻め込むが、迎撃され惨敗した。同年、[[奥羽越列藩同盟]]に参加した。庄内藩に協力して新政府軍を圧倒したが、新庄藩の北に位置する[[久保田藩]](秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。新政府軍が再度新庄領への侵攻を期し、庄内藩ら同盟軍が主寝坂峠で防いでいた最中での離脱であり、これに激怒した庄内藩は新庄藩を攻撃、[[新庄城]]を攻め落とした。この際、城下町の大半が焼失している<ref>市街の再建は進まず、1878年(明治11年)7月半ばにこの地を訪れた[[イザベラ・バード]]は「みすぼらしい町」との感想を残している。</ref>。藩主の[[戸沢正実]]らは[[秋田藩]]に落ち延びている。以後、新庄藩は新政府軍が反撃するまでの70日間、庄内藩によって占領された。[[明治]]2年([[1869年]])、新政府側への変節による新政府軍優位を作り出した功績を賞されて、1万5000石を加増された。同年6月には[[版籍奉還]]により新庄藩知事となる。そして明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]によって正実は[[東京]]に移住し、新庄藩は廃藩となって新庄県となる。そして同年9月に新庄県は[[山形県]]に編入された。
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#[[戸沢正庸]]
#[[戸沢正勝]]
#[[戸沢正のぶ|戸沢正諶]]
#[[戸沢正産]]
#[[戸沢正良]]
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== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* 藤野保・木村礎・村上直編『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』 雄山閣、1988年  ISBN 4-639-10033-7
* [[大友義助]]『シリーズ藩物語 新庄藩』 現代書館、2006年 
 
== 関連項目 ==
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{{出羽国の藩}}
{{江戸時代の藩}}
 
{{デフォルトソート:しんしようはん}}
[[Category:藩]]