「宇都宮氏綱」の版間の差分

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== 生涯 ==
父が[[南朝 (日本)|南朝]]側に仕えたのに対し、氏綱は[[北畠顕家]]が上洛途上で[[鎌倉]]を攻撃したとき、顕家から離反して[[足利尊氏]]の家臣として仕えた。尊氏から[[偏諱]](「氏」の字)の授与を受けて「'''氏綱'''」と名乗った<ref>[[江田郁夫]] 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』([[戎光祥出版]]、2011年)P.13)。</ref>のもこの頃とされる。そして尊氏の下で武功を挙げたため、[[観応の擾乱]]で[[足利直義]]方についた[[上杉憲顕]]が剥奪された[[上野国|上野]]・[[越後国|越後]]両国の[[守護]]職を与えられ([[1352年]])、[[鎌倉公方]][[足利基氏]]の家臣として仕えた。[[薩タ山体制|薩埵山体制]]の一翼を担うが、基氏の信任が厚かった上杉憲顕が赦免されると、憲顕が上野・越後守護職の返還を求め、氏綱がこれを拒むと基氏の怒りを買ってその追討を受け、守護職を剥奪された([[1362年]]・[[武蔵国]][[比企郡]][[岩殿山合戦 (武蔵国)|岩殿山合戦]])。基氏死後の[[1368年]]、これに不満を覚えていた氏綱は[[武蔵国]]の[[武蔵平一揆]]に乗じて反乱を起こしたが、今度は基氏の子・[[足利氏満]]の追討を受けて降伏した。一命こそ助けられたが、失意のうちに[[1370年]]7月5日に紀州に出陣中に45歳で病死した。
 
== 関連項目 ==