「劉知遠」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[テュルク系民族|テュルク系]][[突厥]][[沙陀族|沙陀部]]出身。父の[[劉テン|劉琠]]は[[後唐]]の[[李克用]]の列校をつとめた。

はじめ[[後唐]]の[[李嗣源|明宗]]に仕え、その後は[[後晋]]の高祖[[石敬トウ|石敬瑭]]に仕えた。
 
後晋の建国に大功を挙げたため、[[天福 (後晋)|天福]]9年([[944年]])に[[幽州]]道行営招討使に任じられるなど軍の要職を歴任した。
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[[石重貴|出帝]]のとき、後晋は契丹による侵攻を受けたが、劉知遠は軍を出さなかった。そして出帝が契丹に捕らえられて後晋が滅亡すると、河東行軍司馬の[[張彦威]]に無主となった[[中原]]で皇帝即位を薦められたが、この時は拒絶している。
 
しかし天福12年([[947年]])2月、[[開封]]にて自ら即位して国号を「漢」とし、翌[[948年]]1月に'''[[乾祐 (五代後漢)|乾祐]]'''と改元し、名を''''''と改めたが、同年に崩御した。享年54。
 
== 宗室 ==