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[[第二次世界大戦|第二次大戦]]の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後の晩年は[[鎌倉市|鎌倉]]に住んだ。[[関東大震災]]と第二次大戦による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまったが、清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続けた。[[1944年]](昭和19年)7月1日[[帝室技芸員]]となる<ref>『官報』第5239号、昭和19年7月3日。</ref>。[[1954年]](昭和29年)、[[文化勲章]]を受章。明治、大正、昭和を生き抜いた清方は[[1972年]](昭和47年)、93歳で没した。晩年を過ごした鎌倉市雪ノ下の自宅跡には鎌倉市鏑木清方記念美術館が建てられている。墓所は[[台東区]]の[[谷中霊園|谷中墓地]]にある。
挿絵画家出身で、[[浮世絵]]の流れもくむ清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。[[重要文化財]]指定の『[[三遊亭圓朝|三遊亭円朝]]像』([[1930年]]・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、代表作の一つに数えられている。清方の門人は数多く明治30年に入門した[[門井掬水]]を筆頭に、[[林緑水]]、[[石井滴水]]、[[西田青坡]]、[[伊東深水]]、[[山川秀峰]]、[[寺島紫明]]、[[笠松紫浪]]、[[柿内青葉]]、[[大久保青園]]、[[川瀬巴水]]、[[小早川清]]、[[鳥居言人]]、[[古屋台軒]]、[[北川一雄]]、[[桜井霞洞]]、[[大林千萬樹]]、[[増原宗一]]、[[山田喜作]]らがいた。また、[[1899年]](明治32年)頃、[[尾上多賀之丞 (3代目) ]] も清方に入門していた。
== 代表作品 ==
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