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[[ケベック州]][[モントリオール]]出身の[[フランス]]系。[[モントリオール大学]]で学び、[[ハーバード大学]]大学院に進み、[[マルクス主義]]に強い興味を持っていたトルドーは[[共産主義]]と[[キリスト教]]に関する論文を書いた<ref>English, John (2006). Citizen of the World: The Life of Pierre Elliott Trudeau Volume One: 1919–1968. Toronto: Knopf Canada. ISBN 978-0-676-97521-5. pp. 145–146.</ref>。その後、[[パリ政治学院]]を経て、[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]では[[ハロルド・ラスキ]]に師事する(中退)<ref>English, John (2006). Citizen of the World: The Life of Pierre Elliott Trudeau Volume One: 1919–1968, p. 166. Toronto: Knopf Canada. ISBN 978-0-676-97521-5. pp.166.</ref>。
 
[[1970年]]の[[ケベック解放戦線]]が[[ケベック独立運動|ケベック独立]]を要求しイギリス貿易省クロス長官を誘拐し、ケベック州労働大臣[[ピエール・ラポルテ]]を殺害した「[[オクトーバー・クライシス]](十月危機)」の際、[[戒厳令]]を引き強硬手段で解決にあたったことは、今でも賛否両論となっているが、彼が内政の運営がきわめて難しい多文化国家であるカナダ社会において、[[ケベック州]]生まれで[[フランス系カナダ人]]であるのに関わらず、ケベック独立に反対し、カナダをひとつの国としてまとめようと強力なリーダーシップをとっていたことの一例である。[[1971年]]には「多文化主義宣言」を行い、[[公用語]]を英仏二カ国語とするなど、現在の多文化国家カナダの原型を作り上げた。また、経済政策では[[ペトロ・カナダ]]を設立して石油産業の国有化を図った。[[1982年]]には[[1982年憲法|新憲法]]が制定され、[[イギリス]]との関係を明確にした。その後さらに、対米依存主義脱却を目指した。
 
なお、[[ソビエト連邦]]の駐カナダ大使として着任してきた[[アレクサンドル・ヤコブレフ]]とは深い交友関係を築き、トルドーは自分の次男に[[アレクサンドル・トルドー|アレクサンドル]] (Alexandre) と名付けるほどだった。