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後梁は、唐の弊害だった宦官と門閥貴族を一掃し、首都の移転、農民生活の安定につとめて下級士人に支えられる合理的な革新政権だった。歴史的にも唐を滅ぼし700年続いた[[貴族制]]を終焉させ、しばらく実力を持った武人が横行する時代を招いた。しかし、唐を滅ぼしたとき、晋王[[李克用]]ら唐末の混乱に乗じて地方で自立していた軍閥([[節度使]])が後梁の受禅を認めずに各地で自立したため、[[五代十国時代|五代十国]]の分裂時代が到来した。
 
後梁の版図人口が稠密で文化が進みそのんだ地域を支配し、首都は中国経済の中心地であったが、。しかし版図は元来の唐の4分の一にすぎず、建国後に李克用の子・[[李存勗]]の晋国(のちの[[後唐]])に敗れ押され気味となり、呉との戦でも破られた。また朱全忠は、病気もあって性格が苛烈となり部下を罰することが多く後継者にも恵まれなかった。そのため[[912年]]、病床にあってより養子の博王[[朱友文]]を後嗣に立てようとしたため、実子の郢王[[朱友珪]]によって殺された。帝位についた朱友珪は即位の経緯もあって人望を得ず贅沢三昧の日々を送り、るなかで弟の均王[[朱友貞]]に殺されて帝位を奪われた。こうした内訌で弱体化した後梁は晋国に侵食されていき朱友貞も李存勗との戦いに敗れて殺された。こうして後梁の皇帝はみな非業の最期を遂げ、後梁は3代16年の短命をもって滅んだ。
 
その後の五代の王朝も後梁を正当な王朝と認めず、後世の評判も良くなかった。現在の中国も朱全忠を農民反乱軍の裏切者として高い評価を与えられていない。