「法 (仏教)」の版間の差分
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存在としての「法」とは、具体的に「存在している個々のもの」を法という。この場合も、単にそこに現象として存在しているものではなく、「真理のままに」そこに現象として存在しているという意味を考えるべきである。
[[勝義諦]](しょうぎたい)とか[[真諦 (教理)|真諦]]とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。
この「存在現象」としての「法」について、古くは「能持自相軌生物解」と規定している。これを広義に解釈すると、存在がそれぞれ「存在自身の特相」をもっていて、その特相が軌範となってその存在が何であるかを人々に認識させる。これを「法」というから、我々の認識の対象となるのが「法」である。
{{要出典範囲|古い経典では「いっさいとは[[五蘊]](ごうん)である」と説かれ|date=2012年3月}}、五蘊の法といわれるものを「法」という。これは無常変転して、常住ではない現象存在である
また{{要出典範囲|「いっさいとは[[十二処]]なり」ともいわれている。|date=2012年3月}}「十二処」とは、認識の根本となる眼耳鼻舌身意などの感覚器官と、色声香味触法の認識の対境となるものを指す。「いっさいとは十二処である」というのは、認識における「認識するもの」と「認識されるもの」のいっさいをいう。
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このように「法」が存在を意味する場面がある。しかし、ただ現象的に存在しているということではなく、我々が認識したものとしての存在現象と考えられる。
後には、形而上的な思惟によって「法」を
== 脚注 ==
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