「バルバロス・ハイレッディン」の版間の差分

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==青年期==
[[エーゲ海]]のレスボス島の出身といわれる。父親{{仮リンク|ヤークープ・アーガー|en|Yakup Ağa}}の祖先はギリシア人、アラビルバニア人、トルコ人の諸説あり、[[スィパーヒー]]だった。母親はミティリーニ出身の[[正教徒]]聖職者の寡婦で、ヤークープ・アーガーと再婚した。夫妻は2人の娘と4人の息子をもうけた。
 
ヤークープは4人の息子に、イスハーク、ウルージ、フズール、イリヤスと名付けた<ref name="brita">“[http://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Barbarossa Barbarossa]”.Encyclopadia Britannica (11 ed.)</ref>。三男のフズールが、後のハイレッディンである<ref>鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)、162頁</ref>。兄弟4人全員船乗りとなり、[[聖ヨハネ騎士団|ロードス騎士団]]を相手とする[[私掠船]]で活動した。長男イスハークはミティリーニで、次男と末のウルージとイリヤスはアナトリア、[[レバント]]、シリア、エジプトで活動した。フズールは主にテッサロニキを拠点にエーゲ海で活動した。その後イリヤスはロードス騎士団の攻撃で命を落とした<ref name="brita"/>。次男ウルージはオスマン帝国の皇子コルクトに18隻のガレー船を与えられ、ロードス騎士団を襲撃した。コルクトがマニサ知事となるとウルージは24隻のガレー船を与えられ、[[イズミル]]を拠点としてイタリア半島の[[プッリャ州|アプリア]]に遠征した。
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