「織部焼」の版間の差分

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元和年間に入ると、器形と模様の単純化が急速に進み、瀟洒な作風へ変貌していった。中之町発掘の美濃焼は改元直後に急いで廃棄された形跡があり、古田織部の切腹との関係が指摘されている。この時期の代表的作品として、矢七田窯で焼かれた矢七田織部があげられる。矢七田織部は織部焼に特徴的な緑釉を殆ど用いず、形もより具象的である。元和末年から[[寛永]]初めになると、古典的[[青磁]]の復興を目指した黄緑色から淡青色の御深井(おふけ)釉を用いた[[御深井焼]]が本格化し、織部焼は姿を消した。
 
近年まで古田織部が関与したことを示す資料がなかったが、織部が[[花押]]を鉄絵で記した沓茶碗が発見されたこと(個人蔵)<ref>[[矢部良明]] 『古田織部 ―桃山文化を演出する―」P114』 [[角川書店]]〈角川叢書〉、1999年7月25日、p.114。写真は特別展図録よみがえる桃山の茶 秀吉・織部と上田宗箇展』 秀吉・織部と上田宗箇展実行委員会編 [[広島県立美術館]]、2000年1月、p.110、など。なお他にも[[松井友閑]]宛に、「松佐州様へ くろちやわん 古織部P110と記された織部自筆の送箱が付属する黒織部茶碗もあるが ([[京都国立博物館]]編集 『桃山時代の工芸』 淡交社、1977年5月19日、202図、pp.188)、現在所在不明。</ref>や、[[京都]]の古田織部の屋敷跡から織部焼が発掘されたことから、伝承通り織部が関わっていたことが証明されつつある。ただし、この名称が用いられるようになったのは、織部死後しばらく後の[[寛文]]年間頃からであり、一般に広まるのは[[元禄]]に入ってからである([[槐記]])。
 
== 特徴 ==
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*生産技術
:[[連房式登窯]]の利用や、木型に湿らせた[[麻]]布を張り、そこに伸ばした粘土を押し付けるという手法で、少し前の[[志野焼]]と比べ大量生産が行われた。そうした量産化された茶碗でありながら、同じ作振り、同じ模様で描かれた物はなく、当時の陶工の作陶姿勢において、一碗一碗違った茶碗を造るという意識が徹底していたことを物語る。<ref>[[林屋晴三]] 『日本の美術444 和物茶碗[[至文堂]]、2003年 P54、p.54。</ref>
 
*釉薬
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==脚注==
{{reflistReflist}}
 
==代表作==
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*織部南蛮人燭台([[サントリー美術館]])
 
== 参考資料 ==
* 藤岡了一日本の美術51 志野と織部[[至文堂]]、1970年
* [[河原正彦]]『日本の美術237 陶磁(近世編)至文堂、1986年
 
*展覧会図録「志野と織部」[[出光美術館]]、2007年2-4月
; 展覧会図録
*展覧会図録「向付 茶の湯を彩る食の器」[[五島美術館]]、2009年6-7月
*展覧会図録「志野と織部[[出光美術館]]、2007年2-4月
*展覧会図録「向付 茶の湯を彩る食の器[[五島美術館]]、2009年6-7月
 
== 関連項目 ==