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'''池田 盛邦'''(いけだ もりくに、[[天正]]18年([[1590年]]) - [[承応]]2年([[1653年]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[大宝寺氏]]の家臣。通称は刑部左衛門。父は[[池田盛周]]。子に[[池田盛屋|盛屋]]。
 
出羽朝日山城(現在の[[山形県]][[酒田市]]生石矢流川)を拠点とする[[池田氏#概要|出羽池田氏]]は、[[平安時代]]中期頃に[[藤原秀郷]]の嫡流[[藤原仲光]]が、都より[[摂津国]]池田の地に土着し池田氏を名乗ったことが起源と伝えられている。盛邦は池田源三郎快光の後裔・[[池田秀盛]]から数えて17代目の子孫とされる。
出自は[[池田氏#概要|出羽池田氏]]。後に[[上杉景勝]]に仕えたが離反した。[[慶長]]6年([[1601年]])、[[最上義光]]より荒瀬郷古川村を賜る。[[新田開発]]に功があった。[[最上氏]]改易後、[[庄内地方|庄内]]に入部した[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]に100石で仕官した。
 
出自は[[池田氏#概要|出羽池田氏]]。後に[[上杉景勝]]に仕えたが離反した。[[慶長]]6年([[1601年]])、[[最上義光]]より荒瀬郷古川村を賜る。[[新田開発]]に功があった。[[最上氏]]改易後、[[庄内地方|庄内]]に入部した[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]に100石で仕官した。
 
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